太宗(唐)
太宗(唐)(故宮博物院蔵) ©Public Domain

太宗(唐)


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生涯

幼年

598年に武功県(現咸陽市)で当時隋朝の唐公で煬帝の母方のいとこにあたる父・李淵宇文泰うぶんたい北周の始祖)の孫にあたる母・竇氏の子として生まれた。4歳の頃、李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」と言った。そのため世民という諱がついたという。

即位前

16歳のとき、隋(王朝)煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。

617年(大業13年)、李淵が太原で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年(義寧2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。

同618年(武徳元年)5月、唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐朝では即位前の李世民が尚書令に任じられたため、皇帝の前職に臣下を就任させることを忌避し、滅亡まで尚書令は欠員となった。

李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲・劉武周りゅうぶしゅう王世充おうせいじゅう竇建徳とうけんとく劉黒闥りゅうこくたつといった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。長兄の李建成は立太子された。

621年(武徳4年)、李淵は李世民の功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、天策上将の称号を王公の上に特置して李世民に与えた。同年、門下省に修文館(太宗の即位後に弘文館に改名)が置かれた。

李建成と李世民はしだいに対立し、李建成は李淵に訴えて李世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は二人と密かに連絡し、626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害した(玄武門の変)。この政変により、李淵は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。

貞観の治

即位して長孫氏を皇后に立てた太宗は、その直後に和議を結んでいた突厥の侵攻を受けた。『旧唐書』等の史書によれば、怒りにまかせた太宗は僅か6騎を伴い渭水に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げたと記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている。この事件は渭水之盟もしくは渭水の辱と呼ばれる。

627年、元号を貞観と改元した。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴ぎちょうを登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように勤めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐(王朝)国勢は急速に高まることとなった。

629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣りせき李靖りせいを登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗けつりかがんを捕虜とした。
これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する称号であり、唐(王朝)皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。更に640年(貞観14年)、西域の高昌国を滅亡させ西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。

文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。
また645年(貞観19年)には玄奘げんじょうがインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。

これらの充実した政策により、太宗の治世を 貞観の治と称し、後世で理想の政治が行われた時代と評価された。『旧唐書』では「家々は(泥棒がいなくなったため)戸締りをしなくなり、旅人は(旅行先で支給してもらえるため)旅に食料を持たなくなった」と書かれている。後世、太宗と臣下たちの問答が『貞観政要』として編纂されている。

晩年

太宗の晩年は立太子問題が発生した。当初立太子されたのは長子の李承乾りしょうけんであったが、太宗は弟の李泰りたいを偏愛していた。このことが皇太子の奇行につながり、最後は謀反を図ったとして廃された。魏王も朋党を組んでいて不適格だとして、皇后の兄である長孫無忌ちょうそんむきの意向により、最も凡庸な李治(後の高宗)を皇太子としたが、この立太子問題が後の武則天の台頭の要因となることとなった。649年(貞観23年)に崩御した。

崩御後に諡号として文皇帝(ぶんこうてい)と贈られたが、674年(上元元年)、高宗により文武聖皇帝(ぶんぶせいこうてい)に改められ、更に749年(天宝8年)、玄宗により再度文武大聖皇帝(ぶんぶだいせいこうてい)に変更、そして754年(天宝13年)に玄宗により文武大聖大広孝皇帝(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度改められている。

同時代の人物

中臣鎌足(614〜669)

もとは神官。唐への留学経験者について儒学や兵法を学ぶ。蹴鞠を通じて中大兄皇子と懇意になり、大化の改新では中心的役割を務める。晩年、藤原姓を賜る。

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