専制ローマ帝国 テトラルキア コンスタンティヌス1世 ローマ帝国 ザ・ローマ帝国の興亡 第五話 コンスタンティン
各皇帝の担当領域の変遷 @ Wikipedia
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専制ローマ帝国(専制君主政 ドミナトゥス, ドミナートゥス dominatus) A.D.284〜395

帝政時代の後期、ディオクレティアヌス帝に始まる政治形態。共和制の政治形式は払拭され、皇帝は主人(ドミヌス)のように臣下に対してふるまった。強力な軍隊と官僚に支えられ、権威を強化するためにペルシア風の儀礼も導入された。

専制ローマ帝国(専制君主政 ドミナトゥス, ドミナートゥス)

帝政時代の後期、ディオクレティアヌス帝に始まる政治形態。共和制の政治形式は払拭され、皇帝は主人(ドミヌス)のように臣下に対してふるまった。強力な軍隊と官僚に支えられ、権威を強化するためにペルシア風の儀礼も導入された。

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皇帝一覧

テトラルキア時代

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ディオクレティアヌス 東ローマ244年12月22日サロナ(属州ダルマティア)284年11月20日 – 305年5月1日属州民出身の軍人皇帝。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた。また共同皇帝による東西分割を導入、自らは東方正帝を務めた。311年12月3日自然死
マクシミアヌス 西ローマ250年頃シルミウム(属州パンノニア)286年4月1日 – 311年5月1日属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される。ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。310年頃コンスタンティヌス1世により処刑される
ガレリウス 東ローマ260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア)305年5月1日 – 311年5月頃属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。311年自然死
コンスタンティウス・クロルス 西ローマ250年3月31日ダルダニ(属州モエシア)305年5月1日 – 306年7月25日クラウディウス2世とクィンティッルスの末裔(正確にはクラウディウス2世とクィンテッルスの姪クラウディアの末裔)を自称。ガレリウスの共同皇帝(西方正帝)となった。306年7月25日自然死
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 西ローマ不明306年夏 – 307年前半属州民出身の将軍。ガレリウスの寵愛を受けてコンスタンティウス死後の共同皇帝(西方正帝)となるが、その息子コンスタンティヌス1世とマクシミアヌスの息子マクセンティウスに反乱を起され敗北する。307年9月16日マクセンティウスにより処刑される
マクセンティウス 西ローマ278年頃306年10月28日 – 312年10月28日マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし、西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも、後に反旗を翻されて帝位を追われる。312年10月28日コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死
リキニウスとマルティアヌス、バレリウス・バレンス 東ローマ250年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア)308年11月11日 – 324年9月18日ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。325年頃コンスタンティヌス1世により処刑される
マクシミヌス・ダイア 東ローマ270年11月20日311年5月1日 – 313年後半ガレリウスの甥。叔父の死後にリキニウスと帝位を争うも、敗れて戦死した。313年後半リキニウスの軍勢に敗死
コンスタンティヌス1世 西ローマ272年2月27日ナイッスス(属州モエシア)306年7月25日 – 337年5月22日コンスタンティウス・クロルスの息子。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。337年5月22日自然死

コンスタンティヌス朝

名称
生年と誕生地
在位期間
即位背景
没年と死因
コンスタンティヌス1世272年2月27日ナイッスス(属州モエシア)306年7月25日–337年5月22日コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。自身の死後は息子三人と甥二人による五人の分治を画策する。337年5月22日自然死
コンスタンティヌス2世316年337年5月22日–340年コンスタンティヌス1世の長男。父の死後、次男コンスタンティウス2世と三男コンスタンス1世と共に皇帝となる。兄弟間の内戦に敗れ、弟コンスタンス1世に処刑された。340年コンスタンス1世により処刑される
コンスタンティウス2世317年8月7日シルミウム(属州パンノニア)337年5月22日–361年11月3日コンスタンティヌス1世の次男。即位に際して父の遺言により共治するはずだった従兄弟の二人を殺害しその後、兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる。更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ、父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる。しかし共同帝の必要を感じ、始めは従兄弟のガルスを、後にその弟のユリアヌスを副帝に任じる。361年11月3日自然死
コンスタンス1世320年337年5月22日–350年コンスタンティヌス1世の三男。長男コンスタンティヌス2世との内乱を制するも、将軍マグネンティウスの裏切りにより落命する。350年マグネンティウスにより暗殺される
ウェトラニオ不明不明–350年12月25日コンスタンティヌス1世の側近。大帝の遺児による内戦の最中に反乱を起こすが、コンスタンティウス2世により共同皇帝として懐柔される。その後、マグネンティウスを討伐したコンスタンティウス2世に圧力を受け、共同皇帝から退位して将軍に復帰する。356年自然死
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス332年(331年)コンスタンティノープル(属州トラキア)360年初頭–363年6月26日コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。363年6月26日遠征中に戦傷死
ヨウィアヌス331年シグドゥヌム(属州モエシア)363年6月26日–364年2月17日ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。364年2月17日事故死

ウァレンティニアヌス朝

名称生年と誕生地在位期間即位背景没年と死因
ウァレンティニアヌス1世 西ローマ321年キバラエ(属州パンノニア)364年2月26日 – 375年11月17日ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。375年11月17日自然死
ウァレンス 東ローマ328年キバラエ(属州パンノニア)364年3月28日 – 378年8月9日ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。378年8月9日ゴート軍との戦いで敗死
グラティアヌス 西ローマ359年 シルミウム (属州パンノニア)367年8月4日 – 383年8月25日ウァレンティニアヌス1世の長男。父の死後に西方担当の皇帝位を継承する。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。アグヌス・マキシムスによる反乱で戦死。383年8月25日アグヌス・マキシムスにより暗殺される
ウァレンティニアヌス2世 西ローマ371年ミラノ (イタリア本土)375年11月17日 – 392年5月15日ウァレンティニアヌス1世の次男。アグヌス・マキシムスの反乱で兄が死亡するとテオドシウスの元へ逃亡、その庇護で兄の帝位を継承した。392年5月15日暗殺
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