山名持豊
山名宗全(『本朝百将伝』)©Public Domain

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山名持豊 やまなもちとよ山名宗全やまなそうぜん
室町時代の武将、守護大名。侍所頭人。但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。
明徳の乱で衰退していた山名氏を、武勇をもって将軍家に仕え、嘉吉の変の功によってによって一門で8カ国を領有、山名氏を再興した。幕府の実力者として権勢を誇るが、管領の細川勝元と対立。応仁の乱の西軍の総大将。

山名持豊

山名一門の威信をかけて戦いに挑んだ西軍総大将

急速な権力拡大が招いた応仁の大乱

山名氏の家督を継いだ宗全が目指したのは、明徳の乱の失敗で衰退していた家名の再興である。ひたすら武勇をもって将軍家に仕え、嘉吉の変(赤松氏の反乱)の功によって一門の所領は8か国となり、山名氏はかつての勢力を回復した。

山名氏再興の夢を叶えた宗全の横暴ぶりは次第に激しくなり、「赤入道あかにゅうどう」と呼ばれ恐れられるようになった。
その専横は人々の反発を招く。とくに管領・細川勝元との権力争いは激しく、1467年(応仁1)、宗全を総帥とした西軍11万余と、勝元を中心とした東軍16万余との間に戦いが始まった。将軍家継嗣けいし問題や管領家の畠山・斯波氏の家督相続争いなどさまざまな思惑が重なり合ったこの戦いは容易に決着がつかず、11年にわたって続く。打ち続く戦いに、和平工作を図るが失敗。失意のうちに病死した。以後、戦乱は地方にまで波及し、下剋上の風潮が広まるとともに戦国時代の幕が開かれるのだ。

一休の宗全評:一休宗純は、宗全のことを「業は修羅に属し、名は山(=寺社)に属す」と評している。名前ばかりは出家したものの、強欲で醜い争いばかりしている様子を皮肉ったのである。

ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

武家社会の成長

幕府の衰退と庶民の台頭

幕府の動揺と応仁の乱
応仁の乱の対立関係図
応仁の乱の対立関係図 ©世界の歴史まっぷ

京都では、将軍権力の弱体化に伴い幕府政治の実権が有力守護に移っていくなかで、約1世紀に及ぶ戦国時代の口火を切った応仁の乱(応仁・文明の乱)がおこった。まず管領家の一つ畠山氏で、父畠山持国はたけやまもちくにから家督を譲られた畠山義就はたけやまよしひろ(?〜1490)に対し、反義就派の家臣が一族の畠山政長はたけやままさなが(1442〜93)を擁立して対立し、ついで斯波氏でも惣領の斯波義健しばよしたけ(1435〜52)が後継のないまま死去したため、一族から迎えられた斯波義敏しばよしとし(1435?〜1508)と九州探題渋川氏の一族から迎えられた斯波義廉しばよしかど(1447〜?)が家督を争うなど、幕府の管領家にあいついで内紛がおこった。将軍家でも8代将軍足利義政(1436〜90)が弟足利義視あしかがよしみ(1439〜91)を後継者と定めた翌年、義政の妻日野富子ひのとみこ(1440〜96)に足利義尚あしかがよしひさ(1465〜89)が誕生したことから、両者の間に家督相続争いがおこった。そして当時、幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元ほそかわかつもと(1430〜73)と山名持豊やまなもちとよ宗全そうぜん 1404〜73)が、それぞれ義視と義尚を支援したために対立が激化し、何度かの小競り合いを繰り返したのち、1467(応仁元)年5月に全面的な戦闘状態に入った。

1468(応仁2)年11月、当初東軍にかつがれていた足利義視あしかがよしみが将軍邸を抜け出し、西軍に走ったことから、西軍では義視を将軍に立てて幕府としての陣容をととのえ、ここに東西二つの幕府が成立することになった。以後、戦況は膠着状態に入るが、主戦場となった京都の町は戦火や足軽の乱暴によって荒廃するとともに、争乱は地方へと広がつていつた。応仁の乱はその後、1473(文明5)年に両軍の大将であった山名持豊やまなもちとよ細川勝元ほそかわかつもとがあいついで死去したことから和睦の気運が高まり、1477(文明9)年に主戦派であつた畠山義就はたけやまよしひろ大内政弘おおうちまさひろが下国するに及んで、戦いに疲れた両軍の間に和睦が結ばれた。こうして京都の戦いには一応の終止符が打たれ、守護大名の多くも領国に下ったが、争乱はその後も地域的争いとして続けられ、全国に広がっていった。この争乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、同時に荘園制の解体も進んだ。

詳説日本史研究

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