後金 東アジアの状況
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後金


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後金( A.D.1616〜A.D.1636)

後金こうきんは、建州けんしゅう女真ヌルハチが、東北地方のほぼ全域を統一して、1616年にアイシン(満州語で金を意味する)と号する国(後金こうきん国)をたて、ハンの位について(太祖 位1616〜1626)、元号を天命とした。子のホンタイジの時代に内モンゴル平定、朝鮮服属、女真の民族名を満州に改め、1636年に国号を中国風に清と改めた。

後金

概要

中国、清朝の建国当初の国号。満州語では金国をアイシン・グルン Aisin Gurunと称する。女真の統一をほぼなしとげたヌルハチ(奴児哈赤)は、1616年にハン(汗)位についた。そのときに国号を金と定め、天命と建元したとされるが、清朝の根本史料には国号制定の記載がないことから作為したとの説もある。 12世紀の女真人の国家である金朝を継ぐ意味で金、あるいは後金と称したが、アイシン・グルンとともにマンジュ・グルン、ジュシェン・グルンなどの国号も併称していたとみられる。第2代の太宗(ホンタイジ)が、チャハル(察哈爾)部を従え、大元伝国の璽を得たのを機会に、1636年4月に国号を大清と改め、崇徳と改元し、金(アイシン)やマンジュの国号は消滅した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

東アジアの状況
清の建国
中国東北地方には、農牧・狩猟の生活を営むツングース系の女真じょしん女直じょちょく、清朝成立後に満州と改称)族が住み、明朝の支配をうけていた。この地方でも薬用人参や毛皮の交易がさかんになると、その利益をめぐって女真諸部族相互で争いが激しくなっていった。
15世紀の北方諸民族
15世紀の北方諸民族 ©世界の歴史まっぷ

参考 ブリタニカ国際大百科事典

そのようななか、建州けんしゅう女真の一首長の子に生まれたヌルハチ(姓はアイシンギョロ(愛新覚羅あいしんかくら) 1559〜1626)は、1583年、撫順ぶじゅん関外の興京こうけい付近で挙兵し、1598年建州女真を統一して「マンジュ国」を成立させた。さらにはその北方に位置する海西女真を破り、ほぼ北方地方の全域を統一することに成功した。ヌルハチは1616年、アイシン(満州語で金を意味する)と号する国(後金こうきん国)をたて、ハンの位について(太祖 位1616〜1626)、元号を天命とした。

ヌルハチが金を意味する「アイシン」を国名にしたのは12世紀に同じ女真族がたてた金朝にちなんでのことである。

彼は軍事組織であると同時に行政・社会組織でもある八旗はっきを編制して、女真族を統率した。八旗とは、黄・白・紅・藍の4色からなる4旗と、その4色に縁をつけた4旗とに分けたものであった。

旗の色や形で区別された8個の軍団は、それぞれ7500人の男性から編制されており、この八旗に属する人々を旗人きじんといい、彼らにはさまざまな特権と旗地きちという土地が支給された。太宗時代の蒙古八旗や漢八旗にも適用された。

また、彼はモンゴル文字を借りて表記する満州文字をつくり、統一政策を進めていった。後金の建国とその勢力伸張に驚いた明朝は、10万の大軍を派遣したが、1619年ヌルハチはサルフの戦いでこれを撃破し、1621年には遼河りょうが以東を制圧し、1625年には瀋陽しんよう(のち盛京せいけいと改称)を都とした。

1626年にヌルハチが没すると、その第8子でサルフの戦いで活躍したホンタイジ(1592〜1643)が、人々に推されてハンの位についた(太宗 位1626〜1643)。ホンタイジはしばしば明軍と交戦したが、これを破ることができなかったので、彼はモンゴル高原を迂回して明を攻撃する計画をたて、1635年内モンゴルのチャハル部を平定した。その際、元朝の皇室に伝わったという玉璽ぎょくじを手に入れ、1636年、満州人・漢人・モンゴル人に推されて皇帝の位につき、国号を中国風に(1616〜1912 清朝)と改めた。

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