伴大納言絵詞 承和の変
伴大納言絵詞 (清涼殿で清和天皇(左)に対面する藤原良房) ©Public Domain

承和の変


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承和の変じょうわのへん
842(承和9)年に起きた政変。
退位後も天皇家の家長としての権威を保ち続けていた嵯峨天皇が842(承和9)年に死去すると、その直後に、藤原冬嗣の子藤原良房ふじわらのよしふさは、皇太子に立てられていた恒貞親王つねさだしんのう(淳和天皇と正子内親王との子)を廃し、仁明天皇と藤原順子(藤原冬嗣の子)との子である道康親王みちやすしんのうを皇太子とした。

承和の変

承和の変
皇室・藤原氏の関係系図(天智天皇〜文徳天皇)©世界の歴史まっぷ

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天皇家と藤原氏の関係系図(天智〜文徳) – 世界の歴史まっぷ

貴族政治と国風文化

摂関政治

藤原氏北家の発展

藤原氏は、鎌足やその子不比等ふひとが律令国家の建設に大きな役割を果たしたこともあって、他の氏族に比べて、早くから律令制的な官僚貴族としての道を歩んでいた。
他の氏族、例えば大伴氏などは、奈良時代になっても宮の守衛や軍隊の統率といった律令制以前からのうじとしての職務に固執し、そのような職務に対する意識を強くもっていた。これに対して藤原氏は、鎌足や不比等などの功績や光明子の立后りっこうを背景に、国政運営の最高機関である太政官に数多くの公卿くぎょうを送り込み、8世紀末には特に藤原宇合ふじわらのうまかいの子孫である式家が、藤原百川ふじわらのももかわ藤原種継ふじわらのたねつぐらを出して有力となった。
しかし9世紀初めの嵯峨天皇の時代になると、式家は平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として衰える。また同じころ、蔵人頭くろうどのとう検非違使けびいしの創設などによって天皇の権力が強まると、律令制以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係が消滅し、これにかわって、天皇との個人的な結びつきが貴族の朝廷での地位を左右するようになった。

この時代、「天皇との個人的結びつき」を支える要素としては、①文人としての教養、②管理としての政務能力、③天皇の父方の身内、④天皇の母方の身内、などがあった。

  • ①は9世紀の漢文学隆盛の風潮のなかで、大学で紀伝道を納めた学生が、天皇に注目されて昇進をとげるというもので、9世紀後半、宇多天皇に重用された菅原道真すがわらのみちざねがその代表である。
  • ②は儒教的思想に裏打ちされた政治理念の持ち主や、実務的な官吏として優れた能力を発揮した者、国司・将軍として任地で功績をあげた者などが公卿の地位まで登りつめるというケースである。桓武天皇の時代では、征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂や徳政相論で藤原緒嗣ふじわらのおつぐと論争した菅野真道すがののまみちが著名で、仁明天皇にんみょうてんのうに登用された伴善男とものよしおもこのグループである。
  • ③は嵯峨天皇がその皇子・皇女に源朝臣みなもとのあそみの姓を与えて(嵯峨源氏さがげんじ)以来、歴代の天皇がそれにならった「賜姓源氏しせいげんじ」で、その出自の高さから多くの公卿を出すことになる。
  • ④はいわゆる外戚である。9世紀前半には、藤原氏以外にも、桓武天皇の母を出した渡来系のやまと氏、嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母である橘嘉智子たちばなのかちこを出した橘氏などから、外戚であることによって高い地位につく貴族が現れた。

このようななかで、藤原氏北家の藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐは、有能な官吏として嵯峨天皇の信任を獲得し、蔵人頭となる一方で、娘の順子じゅんし正良親王まさらしんのう(のちの仁明天皇)の妃とした。退位後も天皇家の家長としての権威を保ち続けていた嵯峨天皇が842(承和9)年に死去すると、その直後に、冬嗣の子藤原良房ふじわらのよしふさは、皇太子に立てられていた恒貞親王つねさだしんのう(淳和天皇と正子内親王との子)を廃し、仁明天皇と順子との子である道康親王みちやすしんのうを皇太子とした(承和の変)。
その過程で恒貞親王に仕えていた橘逸勢たちばなはやなり伴健岑とものこわみねが処罰されたが、この事件の最も重要な意義は、藤原氏北家の外戚としての地位の確立にあり、それとともに①②のタイプの貴族は次第に勢力を後退させていくのである。

藤原氏北家の発展 – 世界の歴史まっぷ

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