明治十四年の政変
明治十四年の政変のながれ ©世界の歴史まっぷ

明治十四年の政変


明治十四年の政変

1881年10月、参議大隈重信が国会の開設、憲法の制定について急進的な意見を述べたので、払下げ問題にも関係ありとして免官した事件。政府は払下げ中止、大隈派官僚の追放、欽定憲法の方針を決定して意思を統一し、薩長藩閥による権力体制を固めた。

明治十四年の政変

1881年10月、参議大隈重信が国会の開設、憲法の制定について急進的な意見を述べたので、払下げ問題にも関係ありとして免官した事件。政府は払下げ中止、大隈派官僚の追放、欽定憲法の方針を決定して意思を統一し、薩長藩閥による権力体制を固めた。

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近代国家の成立

立憲国家の成立と日清戦争

国会開設運動
明治十四年の政変
明治十四年の政変のながれ ©世界の歴史まっぷ

政府部内でも、1879(明治12)〜81(明治14)年にかけて、政府首脳が相ついで立憲政治の実現について意見書を提出したが、その多くは準備のため十分に時間をかけて国会を開設する(漸進的国会開設)というものであった。ところが、参議大隈重信が1881(明治14)年3月、2年後には国会を開設してイギリス流の政党政治(議院内閣制)を取り入れるべきであるという内容の意見書を上奏して、漸進的国会開設を主張する伊藤博文らとの対立を深めた。しかも同年夏、開拓使官有物払下げ事件がおこったことは、民権派の政府攻攻撃をいっそう高めることになった。そこで政府は、漸進的な国会開設と君主の権限が強大なドイツ(プロイセン)流の憲法をつくる方針を固め 、1881(明治14)年10月、民権派の機先を制して大隈重信を辞職させるとともに、1890(明治23)年に国会を開設することを約束する勅諭(国会開設の勅諭)を発した。これが、いわゆる明治十四年の政変である。こうして政府は、岩倉具視・伊藤博文らが中心となり、民権派の攻撃の矛先をかわすとともに、自らの主導権のもとに立憲政治の実現をはかることになったのである。

このとき岩倉具視は、大隈の意見に反対して、プロイセンにならって、統帥権や文武官の任免権を含む天皇の強大な大権、二院制の議会、議院内閣制の不採用、制限選挙制などを盛り込んだ憲法をつくるべきだとする意見書を提出し、これが政府の基本方針となった。
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