木戸孝允
木戸孝允(国立国会図書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS ©Public Domain)

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木戸孝允 きどたかよし (桂小五郎かつらこごろう A.D.1833〜A.D.1877)

長州藩士。吉田松陰に学ぶ。西郷隆盛大久保利通らと薩長連合を結び、倒幕運動に活躍。維新後は参与・参議となり、版籍奉還・廃藩置県などに尽力。靖国神社(招魂社)建立に奔走。

木戸孝允

長州藩士。吉田松陰に学ぶ。西郷・大久保らと薩長連合を結び、倒幕運動に活躍。維新後は参与・参議となり、版籍奉還・廃藩置県などに尽力した。

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対立や闘争を制し、合議の志を守った維新の元勲

運命をかけた薩長同盟 朝敵の汚名を返上

「西郷、もう大抵にせんか」西南戦争という暴挙に出た西郷隆盛のことを、死に瀕した病床で木戸孝允きどたかよしうれえた言葉といわれている。維新の盟友同士が戦うことになってしまったむなしさを嘆いた呟きは、本戸の人柄をよく表している。長州藩医の家に生まれた木戸は、古田松陰に師事し、同じ松下村塾出身の久坂玄瑞くさかげんずい高杉晋作らと尊攘運動を進める。池田屋事件禁門の変といった、命を失いかねない事件に遭遇しながら、「逃げの小五郎」などと椰楡されることもあったが、木戸は私情を抑え、慎重に大志成就のときを待った。1866年(慶応2)、前年流れた木戸と西郷隆盛の会談が、坂本龍馬と中岡慎太郎の斡旋によって、京都の薩摩藩邸で行われる。優位な立場にあった薩摩西郷の横柄ともいえる態度に、長州征伐など苦境にあった長州だったが、木戸は頭を下げて援助を請う妥協をしなかった。「このまま長州が減びても、薩摩が幕府を倒してくれれば本望」と長州の矜持きょうじを守り、対等の同盟しか承知せぬ覚悟を示す。薩長同盟は成った。時流は固まり、鳥羽・伏見の戦いでは倒幕軍に錦の御旗が掲げられた。一時は朝敵にまでなつた長州だったが、汚名を返上し、維新の中枢に返り咲いた。雌伏しふくした木戸は事を成した。

名前の変遷:志士時代に桂小五郎として知られたが、小五郎は通称。貫治、準一郎とも名乗った。木戸姓は第二次長州征伐前に長州藩主毛利敬親もうりたかちかから賜ったもので、孝允は桂家当主としてのいみな

権力闘争に巻き込まれた開明派元勲の苦悩

新政権の首脳となった木戸は、長州閥の巨頭として、版籍奉還はんせきほうかんに続き廃藩置県を断行し、日本の再構築を始める。そして欧米視察で先進国と日本の国力差に衝撃を受け、国内近代化の急務を痛感して帰国した。しかし、日本では征韓論が沸騰していた。下級武士の不満はよくわかる。しかし、今の日本はそんなことをしている場合ではない。木戸は内治優先を説く。そして、一度は西郷の決意に圧倒された議定の三条実美さんじょうさねとみが使節派遣を決定したものの、岩倉具視の宮中工作によって閣議決定は幻となる。木戸ら内治優先派の勝利だったが、征韓論派参議はじめ賛同する官僚や軍人が大量に下野する事態となった(明治六年の政変)。

靖国神社
靖国神社拝殿(画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

招魂社しょうこんしゃ建立に奔走した木戸と木村益次郎 靖国神社戊辰戦争以来の戦没者を祀るために、木戸が大村益次郎とともに建立に尽力した。1869年創建当初は招魂社といった。その後、戦没者を祀る神社として特別な存在となる。 

木戸は、合議制による近代的国政を標榜ひょうぼうしたが、繰り返される権力闘争に巻き込まれ続けた。大久保利通への権力の集中は改まらず、下野した板垣退助らは、急進的な自由民権運動で政府専制に対抗。不平士族の反乱は相次ぎ、保身のため政治態度を変える後輩らにも辟易へきえきしながら、木戸は調整役として心身を擦り減らす。そして1877年(明治10)、西郷隆盛の意地の蜂起といえる西南戦争が勃発したとき、病床の木戸にもう余力は残っていなかった。開明派の元勲げんくんは西郷の身と明治の行く末を案じながら明治国家の完成を見ることなく、45歳でこの世を去った。

木戸松子:藩士の家に生まれ公家養女となるが芸者に売られ幾松いくまつと呼ばれる。池田屋事件や禁門の変など木戸の厳しい時代を献身的に支えた。維新後に正室となり、木戸没後は出家し翠香院すいこういんと称した。

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

公武合体と尊攘運動

いったん幕府に屈服した長州藩では、攘夷の不可能なことをさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允、1833〜77)らは、幕府にしたがおうとする藩の上層部に反発し、高杉は奇兵隊を率いて1864(元治元)年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握った。この勢力は領内の豪商·豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかっていった。

長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討(第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じた。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示した。

1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本竜馬(1835〜67)・中岡慎太郎(1838〜67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允きどたかよしらが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた。幕府は6月に攻撃を開始したが、長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城こくらじょうが長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中で出陣中の将軍家茂が急死したことを理由に戦闘を中止した。また、この年の12月に孝明天皇が急死したことは、天皇が強固な攘夷主義者ではあったが公武合体論者でもあったので、幕府にとっては大きな痛手となった。

幕府の滅亡

新政府は、幕府はもちろん朝廷の摂政・関白も廃止し、天皇のもとに総裁議定ぎじょう参与さんよの三職を設置した。ここに260年余り続いた江戸幕府は否定され、「諸事神武創業の始」に基づくことをかかげた、天皇を中心とする新政府が樹立された。総裁には有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王、議定には皇族・公卿と松平慶永山内豊信らの諸侯10名、参与には公家からは岩倉具視、雄藩の代表として薩摩藩からは西郷隆盛・大久保利通、土佐藩からは後藤象二郎、福岡孝弟ふくおかたかちか(1835〜1919)、ついで長州藩から木戸孝允・広沢真臣ひろさわさねおみ(1833〜71)らが任じられ、雄藩連合のかたちをとった。

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