イタリア王国(中世) 東フランク王国 西フランク王国
870年メルセン条約による分裂 ©世界の歴史まっぷ

東フランク王国


フランク王国 A.D.843〜A.D.962
843年のヴェルダン条約でフランク王国を3つに分裂されて成立した王国。現在のドイツおよびオーストリアの領域にあたる。首都:不明。

  • 843年: ヴェルダン条約 ルートヴィヒ2世(東フランク王)
  • 884年: カール3世のフランク王国の一時的統一 カール3世(フランク王)
  • 887年: フランク王国最後の分裂 カール3世(フランク王)
  • 911年: カロリング朝断絶 ルートヴィヒ4世(東フランク王)
  • 962年: オットー1世の皇帝戴冠 オットー1世(神聖ローマ皇帝)

東フランク王国

イタリア王国
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立

フランク王国の分裂
フランク王国の分裂 843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約地図
843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約地図 ©世界の歴史まっぷ

フランク人は慣習的に分割相続制をとっていたため、王国は常に分裂の危機をはらんでいた。カール大帝には3人の男子があったが、第1子・第2子はすでに亡く、814年カール大帝の死とともにフランクの領土と帝位は第3子ルートヴィヒ1世(敬虔王)に継承された。
だが、ルートヴィヒ1世にはロタール1世・ピピン1世・ルートヴィヒ2世の他に、2度目の后との子シャルル2世(のちの禿頭王)がおり、ルートヴィヒ1世がこの末弟を偏愛したことから、3人の兄たちの反乱を招いた(829年〜833年)。こうした混乱の中で、838年にピピン1世、840年に父帝ルートヴィヒ1世が相次ぎ亡くなると、長兄ロタール1世に対しルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合して戦い、843年のヴェルダン条約で帝国は3つに分割された。
その結果、ロタール1世は帝位と中部フランク及び北イタリアを、ルートヴィヒ2世は東フランクを、シャルル2世は西フランクをそれぞれ獲得した。
しかし、855年にロタール1世が亡くなると、ロタール1世の子とルートヴィヒ2世、シャルル2世の間で争いが再燃し、結局870年のメルセン条約で、北イタリアを除く中部フランクは東西フランクに併合されることになった。こうした分割と統合を経て、のちのイタリア・ドイツ・フランスの基礎が作られたのである。

フランク王国の分裂 – 世界の歴史まっぷ

東フランク
東フランク王国(ドイツ)では、北のザクセン、東のバイエルン、南のシュヴァーベン、中部のフランケンなど部族を基礎とする諸侯(部族太公)が勢力を増大させていった。
911年ルートヴィヒ4世(東フランク王)が死にカロリング朝が断絶すると、部族太公の中から新しい国王を選ぶようになったが、国王の選出には絶えず抗争が付きまとった。また、このころ東方ではマジャル人やスラヴ人、北方ではデーン人(ノルマン人)の活動が次第に活発になっていた。
東フランク
870年メルセン条約による分裂 ©世界の歴史まっぷ

フランケン太公のコンラート1世に続いて、ザクセン太公のハインリヒ1世(ドイツ王)が即位すると、まず反対派の太公を抑え、辺境地帯にマルクを設置し、城塞を築いて防備を強化した。

マルク:東方のスラヴ人、マジャル人(ハンガリー人)や北方のデーン人などに備えて設置された辺境領で、その役人は辺境伯(マルク・グラーフ)と称され、しだいに牽制を強めた。

これは、中世におけるドイツ人の東方進出の第1期をなすものである。ハインリヒは、また925年には西方のロートリンゲンを併合し、東フランクの基本構成としての5部族太公制をも成立させた。

ハインリヒの死後、その子オットー1世が即位した。彼は、太公勢力を抑えるために、ドイツの司教に王領地を寄進して伯職と同等の権利を与え、教会を国家の組織に組み込む政策(帝国教会政策)をとった。しかし、ザクセン朝が2代にわたったことや、混乱するイタリア支配をめぐる駆け引きが続く中で、オットーがいち早くイタリア遠征(951年)を行い王位を獲得したことは、諸太公の反乱を招いた(953〜954)。この危機を救ったのが、東方からのマジャル人の襲来であった。異民族の襲来を前に太公軍は結束し、オットーの指揮下にレヒフェルトの戦い(955)で決定的な勝利を収めたのである。これにより、半世紀ほど続いたマジャル人の西ヨーロッパ侵入は終わりを告げた。さらにオットーは蜂起したスラヴ人も撃破したため、国内における彼の地位は不動のものとなった。

961年、オットーはヨハネス12世(ローマ教皇)の救助要請に応えて2度目のイタリア遠征を行ない、翌962年教皇よりローマ皇帝の帝冠を受けた。ここに、いわゆる神聖ローマ帝国が誕生した(オットー1世(神聖ローマ皇帝))。ザクセン朝はその後3代続き、11世紀前半に再びフランケン朝(ザリエル朝)に取って代わられるが、その基本政策に大きな変化は見られなかった。

神聖ローマ帝国

オットー1世(神聖ローマ皇帝)の戴冠以降、19世紀初頭までのドイツ国家の名称を指す。だが、オットー1世自身は「尊厳なる皇帝」とのみ称し、その後12世紀半ばに「神聖帝国」の名称が、また13世紀後半になって「神聖ローマ帝国」の名称が正式に登場した。そして、15世紀半ば以降は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という呼称が一般化した。つまり、神聖ローマ帝国とは、聖なるローマ教会の世界に対応した、皇帝の超国家的支配の理念的表現であった。

現実的にはドイツで王となったものがローマ教皇の戴冠を受け、皇帝としてドイツおよびイタリアに君臨する仕組みをさした。そのため、ドイツ国王は常にイタリア政策を余儀なくされ、ドイツ国内の統治に専念することができなかった。だが、イタリア政策の結果もブルグンド、北イタリアないしはシチリアを一時的に支配するにとどまり、むしろドイツ国内の分権的傾向(領邦国家化)を一層推し進めることになった。

東フランク – 世界の歴史まっぷ

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