石見銀山遺跡とその文化的景観
清水谷精錬所跡 Wikipedia

石見銀山遺跡とその文化的景観


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石見銀山遺跡とその文化的景観

石見銀山いわみぎんざんは、17世紀ごろの日本は全世界の銀産出量の3分の1に相当する量の銀を産出していたと考えられ、東アジア以外にポルトガルやスペインなどヨーロッパへも輸出していた。銀生産に直接かかわる「鉱山と鉱山町」銀や物資を運搬する「街道」物資を搬出入する「港と港町」銀の精錬に必要な薪炭材の供給源として守られた周囲の自然と、社会基盤整備も含めた鉱山運営の全体像や変遷を示している点が産業遺産として評価され世界遺産に登録されている。

石見銀山遺跡とその文化的景観

豊かな銀山をとりまく自然と人々の営み

17世紀ごろの日本は全世界の銀産出量の3分の1に相当する量の銀を産出していたと考えられ、東アジア以外にポルトガルやスペインなどヨーロッパへも輸出していた。その多くが島根県の山間にある石見銀山で採掘された。世界遺産に登録されたのは、銀生産に直接かかわる「鉱山と鉱山町」(間歩まぶと呼ばれる手堀の坑道や代官所跡をはじめとする伝統家屋、寺社)、銀や物資を運搬する「街道」(石見銀山街道)、物資を搬出入する「港と港町」(鞆ヶ浦ともがうら沖泊おきどまり温泉津ゆのつ)である。
また周囲の自然は、銀の精錬に必要な薪炭材の供給源として守られた。このように社会基盤整備も含めた鉱山運営の全体像や変遷を示している点が産業遺産として評価された。

石見銀山は14世紀初頭に大内氏が最初に発見したと伝えられる。その後、16世紀に博多商人の神谷寿貞かみやじゅていが朝鮮半島から技術者を招き、新しい精錬技術である灰吹法はいふきほうを導入した。これによって良質な銀を大量に生産できるようになり、最盛期の17世紀初頭には推計で年間40tを産出するようになった。この宝の山の領有をめぐって、戦国時代には大内氏・尼子氏・毛利氏がしばしば争ったが、江戸時代に入ると幕府の直轄地となり重要な財源のひとつとなった。それにあわせて周辺の街も整備された。しかし、江戸時代に「鎖国政策」を取っていた日本は、ヨーロッパの産業革命によって生み出された新技法の導入が遅れ、また寛永年間(1624〜1644)以降は徐々に採掘量が減少したこともあり、石見銀山は大正時代に休山となった。

ヨーロッパの価格革命

新大陸の鉱山で発掘された銀がヨーロッパに流入したため、16世紀半ば以降銀の価格が下落し、激しいインフレーションが起こった。これにより、商工業が活発になる一方で、固定した地代収入に頼っていた領主層が打撃を受け、封建社会が解体していった。

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登録対象

和名は島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室による公式サイトの表記

銀鉱山跡と鉱山町

  • 銀山柵内
    • 大久保間歩
    • 金生坑きんせいこうおよび精錬所までのトロッコ跡
    • 釜屋間歩かまやまぶ
  • 代官所跡
  • 矢滝城跡
  • 矢筈城跡
  • 石見城跡
  • 大森銀山伝統的重要建造物群保存地区
  • 宮ノ前地区
  • 重要文化財 熊谷家住宅
  • 羅漢寺五百羅漢
  • 佐毘売山神社

石見銀山街道

  • 鞆ヶ浦道
  • 温泉津沖泊道

港と港町

  • 鞆ヶ浦
  • 沖泊
  • 温泉津重要伝統的建造物群保存地区

その他

  • 石見銀山処刑場
  • 千人壷
  • 胴地蔵
  • 人切岩

参考 Wikipedia

ギャラリー

石見銀山遺跡とその文化的景観
全長600mの龍源寺間歩 (画像出典:日本の世界遺産
羅漢寺
羅漢寺 (画像出典:日本の世界遺産
銀積出港・鞆ケ浦
銀積出港・鞆ケ浦 (画像出典:日本の世界遺産
代官所跡
代官所跡 (画像出典:日本の世界遺産

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「石見銀山旧記」

石見銀山の発見から開発について具体的に記した史料に「石見銀山旧記」があります。これには異本や類本、写本など今日まで数多く存在していますが、その中でも一般によく知られているものとしては、文化13年(1816)銀山附役人の大賀覚兵衛が著した「石見国銀山要集」(以下「銀山旧記」という)があります。
「そもそも銀山開起の由来を尋るに…」の書き出しで始まる「銀山旧記」は、鎌倉時代末の延慶2年(1309)大内弘幸が北辰星のお告によって発見したことをその始まりとしています。北辰星は北斗星のことで、妙見信仰を意味するものであり、中世以来大内氏等の武士間では弓矢の神として崇められました。また、この妙見信仰は、鉱山信仰との関係も指摘されています。しかし、この大内氏の発見説話は、蒙古軍の石見着岸の事実など信憑性に欠ける部分があり、また他の史料においてもその事実を確認することは困難であるため、直ちにその内容をすべて信じることはできません。ただ、実際に大内氏を銀山の第一発見者とするかは別として、この記述に見られるように初期の開発が「粋銀」(とじぎん)、つまり自然銀を採取する程度であったことは想像に難くありません。

その後「銀山旧記」は「此時悉く銀を取尽しけり、此時迄ハ地を掘り、間歩を開事をしらさりしゆへ、上鉉の鏈を取尽し、かくのごとく山衰へたり」と、足利直冬の頃には自然銀はことごとく採り尽くされてしまったため、銀山は衰えたとしています。
さて、足利直冬以降中絶した銀山は、再び大永6年(1526)博多商人神屋寿禎によって発見されることになります。この神屋氏は博多の有力な商人で、寿禎の先代主計は天文7年(1538)の遣明船において総船頭を勤めており、大内氏のもとで勘合貿易を行っています。また、寿禎については、天文8年(1539)正月8日と、同年2月4日の両度に博多にいた天竜寺妙智院の策彦周良を訪ねていることが『初渡集』に見え、これは彼の存在を示す数少ない史料とされています。銀山を発見した寿禎は、早速出雲国鷺銅山の山師三嶋清右衛門に相談し、3月20日吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門の3人を連れて銀峯山に登り、銀鉱石を掘り出しています。

ところで、この発見のきっかけについて「銀山旧記」によれば「はるか南山を望むに嚇然なる光有り」と、銀山が光ったためとしています。山が光るという発見説話は石見銀山に限らず、佐渡の鶴子銀山においても「鉄吹炎ノコトク光空ニ移リ怪シケラハ」と、類似した説話が存在します。また『山相秘録』によると、鉱山を発見する方法として史料 2に示したような遠見法なる方法もあったようです。
当初神屋寿禎によって採掘された鉱石は、その場で製錬するのではなく、博多あるいは朝鮮半島に送っていたようで、そのため輸送コストを考えるとどうしても高品位の鉱石以外は対象にならないため、無駄も多くなります。そこで原料の輸出ではなく、山元で製錬して製品(銀)にすることが求められるようになり、天文2年(1533)寿禎は、宗丹・慶寿という2人の禅門を博多より招いて、灰吹法という銀精錬技術を導入することになります。

その結果天文2年(1539~)大内氏に納められた銀が100枚であったのが、天文8年頃には500枚と産銀に大幅な増加が見られるようになりました。やがてこの技術は、佐渡や生野など日本各地の金銀山へ伝わり、日本はかつてないシルバーラッシュを迎えることとなり、この安価な日本銀を求めて日本の沿岸には中国やポルトガルなどの外国船が現れ、天文12年(1543)の鉄砲伝来や天文18年(1549)のキリスト教の伝播へと繋がっていきました。

全文 picture_as_pdf 石見銀山歴史ノート

参考

石見銀山世界遺産センター(島根県大田市大森町) / Iwami Ginzan World Heritage Center(Shimane Pref, Japan)

外部リンク

石見銀山世界遺産センター(島根県大田市大森町) / Iwami Ginzan World Heritage Center(Shimane Pref, Japan)

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