糸割符
長崎港之図(円山応挙画/長崎県美術館蔵)画像出典:長崎県美術館

糸割符


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糸割符 いとわっぷ( A.D.1604〜A.D.1868)

糸割符とは、輸入生糸の専売特権の証札のこと。ポルトガルが、マカオを根拠地に中国産の生糸(白糸)を長崎に運んで、巨利を得てきたことに対し、江戸幕府は1604(慶長9)年に生糸価格の抑制と商人統制のため、糸割符制度を設け、京都・長崎・堺の有力商人を糸割符仲間とし、輸入生糸を一括購入させた。1655(明暦元)年に廃止、1685(貞享2)年に復活し幕末まで続いた。

糸割符

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

初期の外交

ポルトガルは、マカオを根拠地に中国産の生糸(白糸)を長崎に運んで、巨利を得てきた。これに対して、幕府は1604(慶長9)年に糸割符制度いとわっぷせいどを設け、糸割符仲間と呼ばれる特定の商人に輸入生糸を一括購入させて、ポルトガル商人らの利益独占を阻んで、打撃を与えた。

糸割符制度

糸割待とは、輸入生糸の専売特権の証札しょうさつのことである。特定の商人が集まって糸割符仲間をつくり、毎年春に輸入生糸の価格を決定して一括購入したのち、仲間に分配した。はじめは京都・堺・長崎の商人たちであったが、のちには江戸・大坂の商人が加わって五カ所商人と呼ばれた。この制度は、1631(寛永8)年に中国人に、1641(寛永18)年にオランダ人にも及ぼされたが、のちに五カ所商人が損失をこうむったので、1655(明暦元)年に停止された。

長崎貿易

長崎には中国船も来航した。明代は長崎の町中に、中国人(唐人)が雑居するかたちで民間の町人との交渉をもってきた。明清交替で明が滅び清朝が樹立したのちは、清船が自国産の生糸・絹織物、書籍のほか、ヨーロッパからの綿織物・毛織物·南洋産の砂糖·蘇木・香木などをもたらした。幕府は1685(貞享2)年に貿易統制を行って糸割符制度を再興し、貿易額もオランダ船3000貫、清船6000貫に制限したが、さらに1688(元禄元)年に清船を年に70隻と限った。また幕府は翌年、長崎の町に唐人屋敷を完成させ、約3万㎡の屋敷内に清国人の居住を限定し、監視できるようにした。

幕藩体制の展開

経済の発展

商業の展開

江戸時代の初期豪商は、朱印船貿易家糸割符いとわっぷ仲間の商人、あるいは服の御用達商人銀座商人など幕府と結びついた特権的商人たちで、船や蔵をもって巨大な富を形成した。船は、遠隔地間の価格差を利用して利益を上げるときに不可欠な道具であり、蔵は、季節間の価格差を生むために商品を保存しておくのに必需な施設であった。しかし鎖国によって海外との交易が制限されると、初期豪商の国際的な活動の舞台は失われた。

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