葛飾北斎
『富嶽三十六景』「神奈川沖波裏」(葛飾北斎画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

葛飾北斎


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葛飾北斎 かつしかほくさい( A.D.1760〜A.D.1849)

浮世絵師。江戸の人。勝川春章に学び、狩野派、洋画など各種の画法も習得して独自の画風を開く。風景版画の『富嶽三十六景』などは、ヨーロッパ後期印象派の画家に影響を与え、ジャポニスム(日本熱)を生んだ。『北斎漫画』『画本東都遊』など。

葛飾北斎

浮世絵師。江戸の人。勝川春章に学び、狩野派、洋画など各種の画法も習得して独自の画風を開く。風景版画の『富嶽三十六景』などは、ヨーロッパ後期印象派の画家に影響を与え、ジャポニスム(日本熱)を生んだ。『北斎漫画』『画本東都遊』など。

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葛飾北斎
『富嶽三十六景』「神奈川沖波裏」(葛飾北斎画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

『富嶽三十六景』より「神奈川沖波裏」。富士山を画題とした、全46図からなる大判錦絵。フランス印象派に多大な影響を与えたことで知られる。

大衆からゴッホにまで愛された老骨の浮世絵師

さまざまな画法を学んで独自の画風を形成

「6歳の頃より物の形を写す癖あり」と晩年、自身が語るように、幼児から絵を描くことが好きだった。9歳のとき、役者絵を得意とする売れっ子絵師の勝川春章かつかわしゅんしょうに弟子入りする。勝川春朗の名で浮世絵師としてデビューすると、山東京伝さんとうきょうでん十返舎一九じっぺんしゃいっくなどの一流作家の挿絵を描き、しだいに認められる。その一方で師匠譲りの相撲絵を群馬亭の名で発表し、役者絵などでも着実に腕を上げていった。春章の死後、勝川の間を離れた北斎は、狩野融川かのうゆうせんに狩野派、三代日堤等琳つつみとうりんに漢画、住吉広行に土佐派をそれぞれ学ぶ。司馬江漢しばこうかんの洋風画・銅版画の技法や中国絵画の技法も学んでおり、貪欲に画風を吸収していった。北斎の号が見えるのは1796年(寛政8)頃からだが、北斎は一生の間でさまざまな号を使ったことでも有名である。北斎のほかに勝川春朗、両狂老人卍など、その数は30種以上に及んだ。北斎が改号を繰り返したのは、一説には号を売っていたからといわれる。真偽のほどは不明だが、お金に執着しなかった北斎が、売れっ子絵師になっても経済的に余裕がなかったのは事実のようだ。北斎は名前だけでなく、住居も頻繁に変えている。引っ越し回数は生涯で90回を超え、多いときには1日に3回引っ越したこともあったという。

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東町祭屋台天井絵 鳳凰図(葛飾北斎画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

『東町祭屋台天井絵「鳳凰」図』。1844年、北斎85歳のとき半年ほどかけて制作した。北斎は晩年、長野県の小布施に長く逗留していた。

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西瓜図(葛飾北斎画/宮内庁三の丸尚蔵館蔵)画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

北斎の肉筆画『西瓜図』。画狂老人卍の号が見える。

馬琴との衝突:黄金コンビはけんかもしたようだ。北斎が自分の解釈を加えて挿絵を描いたことが、馬琴の逆鱗に触れたのだ。ただし、これがもとで2人が絶交したのかどうかは諸説がある。

精力的に活動した北斎は、挿絵画家の第一人者としての名声を確立する。人気読本作家の滝沢馬琴たきざわばきんとは、北斎が馬琴の家に寄宿し、ともに旅をするなど私的にも交際を深めるほどだった。北斎の名を不朽のものにした『富嶽三十六景』の発表は、72歳のときである。挿絵、風景、役者、美人、花鳥など画域は広く門人も多かったが、教育には熱心ではなかったようで、葛飾一門というべき流派は生み出さなかった。

北斎の娘:晩年の北斎は婚家から戻っていた娘お栄との2人暮らし。お栄は数少ない女流絵師のひとりで、美人画は俺よりうまいと北斎は評した。家で北斎から「おーい」と呼ばれていたので画号を「応以」とした。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

同時代の人物

ベートーヴェン (1770〜1827)

古典派音楽の大成者であると同時に、ロマン主義音楽のさきがけとなったドイツの作曲家。「英雄」初演の頃から葛飾北斎の号を使い、交響曲6〜9番完成の頃に「北斎漫画」を出版。2人とも、天才で貧乏で引っ越し魔だった。

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