行基
行基菩薩坐像喜光寺

行基


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行基ぎょうき A.D.668〜A.D.749
奈良時代の日本の僧。民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

行基

668-749 飛鳥-奈良時代の僧。
天智天皇7年生まれ。和泉(大阪府)の人。義淵ぎいん、道昭に法相ほっそうをまなぶ。
各地で布教のかたわら架橋、築堤、池溝開削、布施屋の設置などにつくして多数の信者を得,菩薩とあがめられる。その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されるが、聖武天皇の帰依をうけ,天平15年東大寺大仏造営の勧進をおこなった。
天平17年わが国初の大僧正。畿内に49寺院をひらいた。天平21年2月2日死去。82歳。俗姓は高志こし
【格言など】山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(「玉葉和歌集」)

参考 デジタル版 日本人名大辞典+Plus

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖ししょう」と呼んでいる。
大仏造営中の天平21年(749年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が納められ多宝塔を立て墓所とした。
また、喜光寺から往生院までの道則を行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山とも呼ばれている。また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。

参考 Wikipedia

行基図

行基
行基図(『拾芥抄』写本。明暦2年(1656年)村上勘兵衛刊行。2枚の画像を合成)
左上に「大日本国図は行基菩薩の図する所也」より始まる説明が記されている。©Public Domain

行基が作ったとされる古式の日本地図。当時に作成されたものは現存しておらず、実際に行基が作ったものかどうかは不明である。ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水や伊能忠敬が現われる以前の日本地図は基本的にはこの行基図を元にしていたとされている。このため、こうした日本地図を一括して「行基図」、「行基式日本図」、「行基海道図」と呼ぶケースがある。

行基が登場する作品

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