辮髪
辮髪した清の芸人。1655〜1657年に描かれたイラスト。©Public Domain

辮髪


Previous Post

Next Post

辮髪

辮髪べんぱつとは、頭髪の一部を残してあとを剃り、その残した頭髪を編んで背中にたらすもので、北方民族の男性におこなわれていた風習である。満州族がたてた清は、服従の証として漢人の男性に辮髪を強制した。僧侶(仏教)と道士(道教)および女性は、辮髪の対象から除外されたため、明末の学者などには僧侶となるものが多かったという。

辮髪

アジア諸地域の繁栄

清代の中国と隣接諸地域

清朝の統治

清は征服者としての権威を保つため、威圧策として漢人に対し厳しい風俗の統制と思想弾圧をおこたらなかった。清に服従した証として、漢人の男性に辮髪べんぱつを強制し、思想や言論に対しても厳しく取り締まった。康熙帝雍正帝乾隆帝が大規模な図書の編纂事業をおこし、学者や文化人を優遇したが、これは一面では中国内に残る異民族を敵視する書籍を、編纂作業の過程で検閲・没収する意味も含まれていた。またこの時期、文字の獄もんじのごくといわれる多くの筆禍事件ひっかじけんがおき、さらに政府は満州人排斥思想(排満思想)を含む図書の刊行を禁止(禁書)し、白蓮教など民間の宗教を邪教として取り締まるなど、厳しい思想統制をおこなった。

辮髪

辮髪とは、頭髪の一部を残してあとを剃り、その残した頭髪を編んで背中にたらすもので、北方民族の男性におこなわれていた風習である。満州族も頭の中央を残して剃り、その髪を編んでたらしていた。清は、1644年明が滅んだ直後、北京へ入ると清への帰順の証として辮髪を強制したが、抵抗があったためすぐに撤回した。しかし、翌1645年南京を攻略すると再度辮髪令を発令し、「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」という布告を南京の街々にだし、10日以内に辮髪することを命じた。違反したものは厳しい措置がとられた。ただし僧侶(仏教)と道士(道教)および女性は、辮髪の対象から除外されたため、明末の学者などには僧侶となるものが多かったという。

詳細:

詳説世界史研究

広告
Previous Post

Next Post