願成就院
願成就院本堂 Wikipedia

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願成就院 がんじょうじゅいん

1189(文治5)年、鎌倉幕府初代執権で源頼朝の妻・北条政子の父、北条時政により北条氏の本拠地韮山にらやまに創建された。北条氏三代で築かれた伽藍および浄土式庭園はその後戦火で焼失したが、現在は境内の一帯が国の史跡に指定されている。大御堂には北条時政が1186(文治2)年に発願した、運慶作の「阿弥陀如来坐像(運慶)」や「不動明王立像・矜羯羅童子立像・制吒迦童子立像(運慶)」「毘沙門天立像(運慶)」(いずれも国宝)が安置される。高野山真言宗。

願成就院

願成就院略縁起

当山は、山号を「天守君山」と称し、阿彌陀如来を本尊とする高野山真言宗の寺であります。
創建は、鎌倉時代初頭の文治五年(1189)に遡ります。この地で源氏再興の旗揚げをし、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して、幕府初代執権で北条政子の父、北条時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まります。幕府の事蹟を伝える歴史書「吾妻鏡」には、時政公が建立してから三代執権北条泰時公の頃までの様子が詳しく記されています。時政公が建立した大御堂と南塔、二代執権北条義時公が亡父時政公供養として建立した南新御堂、三代執権北条泰時公による北条御堂と北塔の建立など、堂塔伽藍の営作は北条氏三代にわたります。そして、貞応元年(1222)には、「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷よりくだされており、この地に、守山を借景として、中之島のある大きな池を配した「浄土様式」の壮大な寺院が北条氏の氏寺として造営されていたのであります。数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和四十八年に、境内を中心に周辺一部地域を含めて「旧願成就院跡」として国指定史跡になっています。

鎌倉時代の伽藍は、十五世紀末、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の堀越御所(北条時政館跡)攻めの兵火で焼失しましたが、創建時に祀られた大仏師運慶謹作の五仏を中心とする七体の仏像と、仏像胎内造像銘札四枚は、奇跡的にも今日に伝えられており、この尊きご仏像を拝観しますと、幕府最大の権力者北条氏と、この寺の盛時を偲ぶことができます。

本尊阿彌陀如来坐像・不動明王立像・矜羯羅童子立像こんがらどうじりつぞう制吒迦童子立像せいたかどうじりつぞう毘沙門天立像びしゃもんてんりつぞうの五体の仏像は、胎内造像銘札によって文治二年(1186)の造像で、運慶三十代半ば頃の謹作で、日本彫刻史上、運慶様式・鎌倉様式の成立を示す、極めて大きな意義を有する尊像であるとして、平成二十五年に国宝に指定され、造像銘札四枚も附国宝に指定されています。また、本堂(茅葺き御堂)の本尊阿彌陀如来坐像と、宝物館に祀る北条政子尼七回忌供養地蔵菩薩の両像も、一三世紀前期の慶派の正統仏師による秀作とされ、県指定文化財になっています。

境内には、北条時政公と足利茶々丸公(堀越御所二代公方)の墓所があり、両公の菩提寺であります。源頼朝公旗揚げの地であり、北条氏の本拠地でもあったこの地は、まさに鎌倉幕府草創の地であります。伊豆韮山を訪れていただき、当山の運慶作五仏を拝観されて、八百年昔の歴史のロマンに想いを馳せていただきたいと思います。

参考 公式サイト

ギャラリー

阿彌陀如来坐像(運慶)
阿彌陀如来坐像(運慶)(画像出典:願成就院)
不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像
不動明王・矜羯羅童子・制吒迦童子三尊立像(運慶)(画像出典:願成就院)
毘沙門天立像(運慶)
毘沙門天立像(運慶)(画像出典:願成就院)
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