開国 ペリー 黒船来航
1854年黒船来航(ペリーに随行した画家ウィルヘルム・ハイネ画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

黒船来航


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黒船来航 (ペリー来航)

1853年、ペリーが率いるアメリカ東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

黒船来航

合衆国水師提督口上書
合衆国水師提督口上書(作者不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

東インド艦隊司令官兼遣日特使として、1853(嘉永6)年ペリーが浦賀に来航。翌年の再来航で日米和親条約を締結し、日本を開国させた。

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開国までの流れ

アメリカ、ロシア、イギリスの来航と江戸幕府の対応

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開国までの流れ

将軍老中戦争月日アメリカロシアイギリス幕府の対応
第12代将軍徳川家慶阿部正弘1853年クリミア戦争
同盟軍(フランス、オスマン、イギリス、サルデーニャ)

ロシア帝国・ブルガリア義勇兵
同盟軍(フランス、オスマン、イギリス、サルデーニャ)の勝利
3月28日
5月26日ペリー、琉球王国の那覇沖に停泊。
首里城への訪問を拒否されたが兵員を率いて進軍。開国を促す大統領親書を渡す。
琉球王国側は訪問拒否するが進軍され、武装解除した士官数名の入城を認める。
6月14日ペリー艦隊の一部、小笠原諸島探検。領有を宣言するが、イギリス、ロシアから抗議。水野忠徳を派遣、八丈島住民などを積極的に移住させて領有権を認めさせる。
7月8日ペリー、浦賀沖に来航。
7月9日幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否。浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握。
7月10日「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、
江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅す。
艦隊所属の各艦から一隻ずつの武装した短艇を派遣して、浦賀湾内を測量させ、
幕府側に威圧を加えた。
浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して会見。
7月11日病床の家慶に代わり老中首座阿部正弘は、「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至る。
7月14日ペリーは開国を促す大統領・フィルモアの親書、提督の信任状、覚書などを手渡す。
1年後の再来航を告げる。
ペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見する。親書の返答に1年の猶予を要求。
7月15日ペリーはミシシッピー号に移乗し浦賀より20マイル北上して
江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、将軍に充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返す。
7月17日江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して
イギリスの植民地である香港へ帰る。
7月24日オランダに艦船発注。
7月27日徳川家慶死去。公議輿論を招く。
8月23日プチャーチン、長崎に来航。長崎奉行・大沢安宅に国書を渡す。
8月26日阿部は江川太郎左衛門等に品川沖に砲撃用の台場造営を命じる。
第13大将軍徳川家定11月23日クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため
艦隊を差し向けたという情報を得たため、長崎を離れ一旦上海に向かう。
家定が第13代将軍に就任。病弱で国政を担えるような人物ではなかった。
12月7日2年前にアメリカから帰国し土佐藩の藩校の教授となっていたジョン万次郎を旗本格として登用し、アメリカの事情等を述べさせる。
12月14日大船建造の禁を解除、各藩に軍艦の建造を奨励。
1854年1月3日プチャーチン、長崎に再来航。
2月13日ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、
国政の混乱の隙を突こうと浦賀に再来航。
6回に渡り会談したが交渉はまとまらず、将来日本が他国と通商条約を
締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意。
幕府全権・川路聖謨、筒井政憲
3月31日アメリカ側全権・東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー
日米和親条約調印。
日本側全権・林復斎(大学頭)
日米和親条約調印。
4月25日吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触。
5月下旬箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求める。権限がないとして拒否。
6月17日伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺にて下田条約締結。下田条約締結。
6月25日帰路に立ち寄った琉球王国と正式に通商条約締結。
9月7日スターリング率いるイギリス艦隊が長崎に来航。
英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、
幕府に対して局外中立を求める。(外交交渉は任務に含まれていなかった。)
10月14日日英和親条約調印。
英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリング。
日英和親条約調印。
長崎奉行・水野忠徳、目付・永井尚志
10月21日プチャーチン、函館に来航したが交渉を拒否されたため
大阪天保山沖に到着、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受ける。
12月3日下田に入港。川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣
12月23日安政東海地震発生。ディアナ号も津波により大破、乗組員にも死傷者が出た。安政東海地震発生。
交渉中断。
1855年1月15日プチャーチンは艦の修理のため伊豆の戸田村(へだむら、現沼津市)に向かうが
宮島村(現富士市)付近で強い風波により浸水し沈没。プチャーチン一行は戸田に滞在する。
代わりの船の建造の許可。
1月13日交渉再開、日露和親条約締結。ロシア側全権・提督プチャーチン。日本側全権・大目付格筒井政憲、勘定奉行・川路聖謨。
日露和親条約締結。
開国派堀田正睦10月9日攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派・松平乗全、松平忠優を老中より罷免したことが、開国派・井伊直弼らの怒りを買い孤立を恐れた正弘は開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り両派の融和を図る。
1856年1月日蘭和親条約調印
3月30日パリ条約成立。
アロー戦争
イギリス・フランス連合軍

6月28日アロー戦争勃発
7月21日アメリカ領事・ハリスが修好通商条約締結のため来日。下田に赴任。
1857年10月ハリスは江戸城に登城。将軍家定に謁見し国書を手渡す。老中堀田正睦はこれを京都の朝廷に上奏したが勅許を得られず。
井伊直弼1858年4月23日松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老、新宮藩主)ら南紀派の政治工作により井伊直弼が大老に就任
7月29日日米修好通商条約
アメリカ側全権・ハリス。
日米修好通商条約を無勅許調印。
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