龍門石窟
龍門石窟の盧舎那仏 ©Public Domain

龍門石窟


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龍門石窟  
河南省洛陽の南14kmにある北魏~初唐時代の仏教石窟群。伊水河岸の石灰岩の岩山に拓かれ、西山に28、東山に7の大洞、1352の洞窟、785の仏龕がある。5世紀から造営が始まり、初唐期に再び盛んとなり、西山中央の奉先寺洞の昆盧舎那仏の大仏が龍門全体の中心となっている。
中国の世界遺産「龍門石窟」に登録されている。

龍門石窟

中国河南省洛陽市の南14km、古くは伊闕石窟とも呼ばれた。石灰岩の岩山を開掘したもの。北魏、太和18(494)年に始まり、孝文帝が洛陽に遷都後は盛大に造営され、唐代まで続いた。最初は西山の古陽洞がつくられ、景明1(500)年からは帝室の造営になる賓陽3洞が開かれた。蓮華洞もほぼ同じ頃に営まれた。竜門石窟の仏像群は雲崗石窟に次ぐ様式をもち、細面、長身の像で、衣文は整然と処理された特色を示す。外形上では初めは交脚像が多く、時代が下るにつれ写実性を増し、身躯も豊かになっていく。隋、唐代には西山の開掘が盛んとなり、奉先寺洞、恵簡洞など著名な石窟が開かれた。なかでも奉先寺洞は竜門最大の石窟で、本尊盧舎那仏は約20mの高さに達し、写実的に優れた傑作。盛唐期には東山の看経寺洞、擂鼓台3洞などが開かれた。2000年世界遺産の文化遺産に登録。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

概要

龍門洞窟
龍門洞窟 ©jpkabegami.com

北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期(494年〜520年)と呼ばれる時期の始まりである。

龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった。『書』釈老志にも、500年(景明2年)に宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している。

様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる。

最初期は5世紀末の「古陽洞」窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まる。宣武帝の計画を受けて開削された「賓陽洞」3窟のうち、実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみであり、南と北洞の完成は唐(王朝)初期であった。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、「蓮華洞」が見られる。また、北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続され、「薬方洞」は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟である。

唐代には、魏王泰(李泰)が賓陽3洞を修復し、褚遂良ちょすいりょうに命じて書道史上名高い『伊闕仏龕碑』を書かせ、641年(貞観15年)に建碑した。初唐(王朝)代表は、656年 – 669年(顕慶年間〜総章年間)に完成した「敬善寺洞」である。その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成し、この高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる。

龍門石窟
龍門石窟の盧舎那仏

絶頂期の石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天ぶそくてんも浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒仏みろくぼさつの化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である。

武則天の時代には、西山の南方、「浄土洞」の付近まで造営が及んだので、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになった。「看経寺洞」がその代表である。

Wikipediaより

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