イタリア王国(中世) 東フランク王国 西フランク王国
870年メルセン条約による分裂 ©世界の歴史まっぷ

イタリア王国(中世)


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イタリア王国(中世) (774年〜1797年)
ドイツ、ブルグントと共に神聖ローマ帝国を構成した王国である。ヴェネチア共和国を除く北部および中部イタリアから成る。11世紀まで首都はパヴィーアとされた。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つものの、その殆どの期間はカロリング帝国や神聖ローマ帝国の構成国としてのものであり、独立していたのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずであった。13世紀には政体としての実態を失い、16世紀後半以降はイタリア王の称号自体が使われなくなった。一方で王国の封建的ネットワークは18世紀末まで名目的ながら維持された。

  • 774年: シャルルマーニュのイタリア王戴冠 カール大帝
  • 855年: イタリア王国として独立 ロドヴィコ2世
  • 888年: 無秩序時代の開始 ベレンガーリオ1世
  • 963年: 神聖ローマ帝国の支配下となる オットー1世 (神聖ローマ皇帝)
  • 1002年: 一時的に独立(2年間) アルドゥイーノ・ディヴレーア

イタリア王国(中世)

イタリア王国
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立

フランク王国の分裂
フランク王国の分裂 843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約地図
843年ヴェルダン条約と870年メルセン条約地図 ©世界の歴史まっぷ

フランク人は慣習的に分割相続制をとっていたため、王国は常に分裂の危機をはらんでいた。カール大帝には3人の男子があったが、第1子・第2子はすでに亡く、814年カール大帝の死とともにフランクの領土と帝位は第3子ルートヴィヒ1世(敬虔王)に継承された。
だが、ルートヴィヒ1世にはロタール1世・ピピン1世・ルートヴィヒ2世の他に、2度目の后との子シャルル2世(のちの禿頭王)がおり、ルートヴィヒ1世がこの末弟を偏愛したことから、3人の兄たちの反乱を招いた(829年〜833年)。こうした混乱の中で、838年にピピン1世、840年に父帝ルートヴィヒ1世が相次ぎ亡くなると、長兄ロタール1世に対しルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合して戦い、843年のヴェルダン条約で帝国は3つに分割された。
その結果、ロタール1世は帝位と中部フランク及び北イタリアを、ルートヴィヒ2世は東フランクを、シャルル2世は西フランクをそれぞれ獲得した。
しかし、855年にロタール1世が亡くなると、ロタール1世の子とルートヴィヒ2世、シャルル2世の間で争いが再燃し、結局870年のメルセン条約で、北イタリアを除く中部フランクは東西フランクに併合されることになった。こうした分割と統合を経て、のちのイタリア・ドイツ・フランスの基礎が作られたのである。

フランク王国の分裂 – 世界の歴史まっぷ

イタリア

イタリア王国(中世)では、9世紀末にカロリング家が断絶すると、大諸侯のイタリア王位をめぐる争いが続いた。イタリア南部ではすでに9世紀前半からイスラーム勢力の進出が著しく、10世紀初頭にはついにシチリア全島がその支配下に入った。イスラームはこのシチリア島を根拠地に、西地中海を制圧する一方、イタリア半島の沿岸諸都市を攻撃した。

同じころ、イタリア北・中部地方にアジア系マジャル人が侵入しはじめた。これに対抗するため、農村では囲壁を持つ防備集落が盛んにつくられ、領主制支配の拠点となった。また、都市では住民が司教を中心に団結し、自力でイスラームやマジャル人からの防衛をはかったところから、しだいに自治意識が高まっていった。その後、10世紀後半以降はドイツ王の、また11世紀半ばにはヴァイキングの進入がたび重なり、国内は乱れがちであった。

イタリア – 世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

北と南のイタリア

中世後期のイタリアは、中部のローマ教皇領を挟んで、北と南でそれぞれ異なった歩みを見せることになった。
北イタリアでは、ドイツやフランスのような封建性はあまり発展せず、ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなどが地中海商業で富を蓄積し、独特の都市共和国(コムーネ)を形成していった。ドイツ皇帝のイタリア遠征が続きローマ教皇と対立が激化すると、諸都市は皇帝党ギベリン Ghibellines)と教皇党ゲルフ Guelfs)に分かれて争った。

例えば、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)の遠征に対する北イタリア諸都市のロンバルディア同盟の結成は、教皇党(ゲルフ)としての戦いであった。 都市の自治権獲得

都市の内部でも大商人などの上層市民は皇帝党(ギベリン)を、新興市民層は教皇党(ゲルフ)をそれぞれ支持し、激しい戦闘を繰り広げた。

トスカナ平原のフィレンツェでは、13世紀後半市民が皇帝党(ギベリン)の貴族を追放して共和制を実現、教皇と結びついて金融・商業を中心に発展した。だが、大商人・金融業者ら大市民が市政を独占するようになると、中産市民・下層労働者らの小市民はこれに反発し、1378年にはチオンピの乱が起こった。
結局、市政は大市民層に掌握され、アルヴィッツィケ、メディチ家による寡頭支配が行われた。
またロンバルディアの中心ミラノでは、13世紀にヴィスコンティ家が実権を握り14世紀末以降公国を称した。その支配は中部イタリアの一部にまで及んだが、15世紀半ばにスフォルツァ家にとってかわられた。
他方、市民の中から選ばれた総督(ドージェ)による寡頭政治が行われたヴェネツィアでは、強力な艦隊をもとにアドリア海から東地中海に進出し、第4回十字軍を利用してコンスタンティノープルを攻略、各地に植民地を獲得した。さらに14世紀には地中海の覇権をかけて宿敵ジェノヴァと戦いこれを撃破、東方貿易を独占して「アドリア海の女王」の名をほしいままにした。

南イタリアは、8世紀以降イスラームの支配下にあったが、11世紀にはノルマンが進出、やがてルッジェーロ2世によりシチリア島とナポリにまたがる両シチリア王国が建設されると、司法・行政が整備され集権化が進んだ。そして、首都パレルモの宮廷には、イスラーム文化にビザンツ・ノルマンの文化が融合した国際的文化が形成された。
その後、支配権はドイツのシュタウフェン家を経てフランスのアンジュー家に移ったが、その苛酷な支配に対し、1282年シチリア島民は反乱を起こした。その結果、シチリア島は反乱を助けたアラゴン家の支配下に入り、アンジュー家の支配するナポリ王国と分離することになった。

シチリアの晩鐘

1282年3月30日復活祭の夕刻にパレルモで起こり、やがて全島に広まったこの対仏反乱は、「シチリア晩鐘(晩祷)戦争」と呼ばれる。

こうして中世末期のイタリアは、北の都市共和国と南の集権国家という堆肥の中で、ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・教皇・ナポリの5大勢力が分立する情勢を形づくった。なおナポリ王国は、15世紀半ばにアラゴン家により征服されるが、同世紀末には再生服をはかるフランスにより、イタリアは長い戦争(イタリア戦争 1494〜1559)に巻き込まれていく。

詳説世界史研究

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