ナバラ王国
ナバラ王国の紋章 Source Wikipedia

ナバラ王国


ナバラ王国 A.D.824〜A.D.1620
中世に現在のスペインナバラ州に存在した王国。スペイン帝国に併合された後も副王領として自治権を得ていた。首都: パンプローナ。

  • 824年: 成立 イニゴ・アリスタ
  • 1035年: 分割 サンチョ3世(ナバラ王)の死後、分割相続
  • 1589年: ナバラ王位をフランス王位に統合される
  • 1620年: 消滅 フランスに併合

ナバラ王国

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ
ナバラ王国
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

歴代国王と概略

イニゴ家 824年?–905年

イニゴ家は824年頃にフランク王国の権威に反旗を翻すことでナバラ(パンプローナ)王国の土台を築いた。

  1. イニゴ・アリスタ 824年?–851/2年
  2. ガルシア・イニゲス 851/2年–882年
  3. フォルトゥン・ガルセス 882年–905年
スペインとポルトガル 8〜13世紀レコンキスタ地図 ポルトガル王国
8〜13世紀レコンキスタ地図 ©世界の歴史まっぷ

ヒメノ家 905年–1234年

905年、隣国との連携はフォルトン・ガルゼスの修道院への隠遁を余儀なくさせ、その後には新王朝ヒメネス朝の王統が続いた。新王朝のもとでナバラの名がパンプローナの名に取って代わった。

  1. サンチョ・ガルセス1世 905年–925年
  2. ヒメノ・ガルセス 925年–931年
  3. ガルシア・サンチェス1世 931年–970年
  4. サンチョ・ガルセス2世 970年–994年
  5. ガルシア・サンチェス2世 994年–1000/1004年
  6. サンチョ・ガルセス3世サンチョ3世(ナバラ王)) 1004年–1035年
    初代国王イニゴ・アリスタのま末裔。大王。
    カスティーリャ伯領の女子相続人ムニアドナと結婚し、ナバラ王国の領土はイベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。
  7. ガルシア・サンチェス3世 1035年-1054年
  8. サンチョ・ガルセス4世(サンチョ4世(ナバラ王)) 1054年–1076年
サンチョ3世の死後-分割

サンチョ3世(ナバラ王)の死後、領地は4人の息子に分割相続され、再度ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれたが、それぞれの地域をナバラのヒメノ王家が治めた。しかしその後フェルナンド2世(アラゴン王)まで、大王の領土は融合することなく、カスティーリャ王国レオン王国と連合し、アラゴンは領土を拡大し、政略結婚を通じてカタルーニャ王国と連合した。
サンチョ・ガルセス4世が弟に暗殺されると、ナバラは従兄弟のアルフォンソ6世(カスティーリャ王)とサンチョ1世(アラゴン王)の侵略を受け、後者がナバラ王になり、半世紀の間アラゴン王国の支配下に置かれ、カスティーリャ王国はナバラ王国の西部を支配した。

  1. サンチョ5世ラミレス(アラゴン王) 1076年–1094年
    ナバラ王国はアラゴンと連合(1076年-1234年)することにより東部の紛争を避けることが出来たが、西部はカスティーリャ王国の支配が続いた。
  2. ペドロ1世(アラゴン王)  1094年–1104年
  3. アルフォンソ1世(アラゴン王)(戦闘王)  1104年–1134年
    最大領土拡張を達成した。
アラゴン王国支配下

アルフォンソ1世(アラゴン王)の死はアラゴンを王位継承危機に導き、ナバラ貴族が暗殺されたサンチョ4世の大甥(庶兄弟を介する形となる)を王位につけることで王国の再建独立をするのに有利に働いた。

  1. ガルシア・ラミレス(ガルシア6世(ナバラ王)) 1134年–1150年
    エル・シッドの孫。リオハをカスティーリャ王国に、タラゴナをアラゴン王国に明け渡した。
  2. サンチョ6世(ナバラ王)(賢王) 1150–1194
    ナバラを内外共に強固にし、娘ベレンガリア・オブ・ナヴァールはリチャード1世(イングランド王)と結婚した。
  3. サンチョ7世(ナバラ王)(剛勇王) 1194年–1234年
    ヒメノ家男系最後の王。

シャンパーニュ(ブロワ)家 1234年–1284年

ヒメノ朝の最後の君主サンチョ7世(ナバラ王)の死で、ナバラ王位はその妹ブランシュの男子であるブロワ家のシャンパーニュ伯(ブロワ家)ティボー4世(テオバルド1世)に移り、ブランシュは長い間摂政を務めた。

  1. テオバルド1世(ナバラ王) 1234年–1253年
    ルイ7世(フランス王)の曾孫。
  2. テオバルド2世(ナバラ王) 1253年–1270年
    ルイ9世(フランス王)の王女イザベル・ド・フランス(ナバラ王妃)と結婚。フランス王家と近い関係にあり、シャンパーニュ伯家(ブロワ家)はフランスでも屈指の名門貴族であったため、イベリア半島の領地よりフランスに関心が向けられ、ナバラは次第に衰退へと向かうことになった。
  3. エンリケ1世(ナバラ王) 1270年–1274年
  4. フアナ1世(ナバラ王女) 1274年–1305年

カペー家 1284年–1349年

エンリケ1世(ナバラ王)の急死後、男系が途絶え、幼い娘フアナ1世が唯一の後継者となり、その母でフランスの王族であったブランシュ・ダルトワが10年間摂政となり、フィリップ3世(フランス王)に庇護を求め、1284年にフアナがのちのフィリップ4世(フランス王)と結婚したことでブランシュの摂政統治は終わり、フィリップ4世はフランス国王即位後に「フランスとナバラの国王」を称した。ナバラはフランスから総督を通じて統治されることになった。以後、カペー朝の断絶までフランスとナバラの同君連合は続いた。ナバラ王家の血を引かないヴァロワ家のフィリップ6世(フランス王)の即位によって1328年に同君連合は解消され、ルイ10世(フランス王)の娘フアナ2世とその夫でフランス王族のエヴルー伯フィリップ(フェリペ3世)がナバラ王位に就いた。

  1. フェリペ1世(フランス王) 1284年–1305年
  2. ルイス1世(フランス王) 1305年–1316年
  3. フアン1世(フランス王) 1316年
  4. フィリップ5世(フランス王) 1316年–1322年
  5. カルロス1世(フランス王) 1322年–1328年
  6. フアナ2世(ナバラ女王) 1328年–1349年

エヴルー家 1328年–1441年

  1. フェリペ3世(ナバラ王) 1328年–1343年
  2. カルロス2世(ナバラ王) 1349年–1387年
  3. カルロス3世(ナバラ王) 1387–1425
  4. ブランカ1世(ナバラ女王) 1425–1441
    カルロス3世で男系断絶。娘のブランカ1世と夫のフアン2世が継いだ。

トラスタマラ家 1425年–1479年

  1. フアン2世(アラゴン王) 1425年–1479年(デ・ファクト) 1425年-1441年(デ・ジュリ)
    たびたび外征を重ねる兄アルフォンソ5世(アラゴン王)に代わってアラゴンを統治し、ナバラの統治を長男ビアナ公カルロスに任せた。
    妻ブランカ1世はカルロスにナバラ王位継承を遺言し死去したが、フアン2世は野心家の後妻フアナ・エンリケスとの子フェルナンド(のちのフェルナンド2世(アラゴン王))をもうけたため、王と王妃を支持のアグラモンテス党と、カルロスを支持するベアウモンテス党との間で激しい内乱が勃発した(ナバーラ内戦)。平野が王の側、高地が王太子の側にあった。
  2. レオノール(ナバラ女王) 1479
フアン2世に対する王位請求者 1441年–1464年

フアン2世(アラゴン王)は妻ブランカ1世の没後もナバラ王位を保持したが、長男と長女は王位請求者かつ事実上の君主であった。ナバーラ内戦で1451年、カルロスはアイバルで父に敗れ、2年間投獄された。その間にカルロスは、この事件に関する現在の知識の典拠となったナバラの年代記を書いた。カルロスは釈放後、シャルル7世(フランス王)と伯父アルフォンソ5世(アラゴン王)の支援をむなしく求めた。1460年、継母のそそのかしによりカルロスは再び投獄された。しかし、カタルーニャの人々がこの不正に抗議し暴動を起こした。カルロスは再び解放され、カタルーニャの総督に任命された。カルロスはナバラ王国を奪回することができないまま、1461年に死去した。彼は相続人として同母妹ブランカを指名したが、ブランカはフアン2世によって直ちに投獄され、1464年に死去した。

  1. カルロス4世(ビアナ公) 1441–1461
  2. ブランカ2世 1461–1464

フォワ家 1479年–1518年

  1. フランシスコ1世(ナバラ王) 1479年–1483年
    父はレオノール(ナバラ女王)の長男ガストン・ド・フォワ(ビアナ公)と母はシャルル7世(フランス王)の娘マドレーヌ・ド・フランス (ビアナ公妃)。幼くして戴冠し、母マドレレーヌが摂政を務めた。成人せずに早生したため妹カタリナが継いだ。
  2. カタリナ(ナバラ女王) 1483–1517
    母マドレーヌが引き続き摂政を務める。フェルナンド2世(アラゴン王)はカタリナを長男フアン(アストゥリアス公)と結婚させようとしたが、カタリナは南フランスに広大な領地を有するペリゴール伯兼アルブレ伯ジャンフアン3世と結婚し共同統治する。若年かつ女子であるカタリナの即位に対し、カタリナの叔父ジャン・ド・フォワ(ナルボンヌ子爵)は自らの王位継承権を主張してナバラに内乱を起こした。叔父ジャンの娘でカタリナの従妹にあたるジェルメーヌ・ド・フォワと再婚したフェルナンド2世(アラゴン王)が、1512年ナバラを征服し、翌年妻の権利によるナバラ王即位を宣言した。

アルブレ家 1518年–1572年

フアン3世(ナバラ王)は1512年にフェルナンド2世(アラゴン王)に敗北した。1512年以降のナバラの君主は単にピレネー山脈以北の低ナバラ(バス=ナヴァール)一帯をフランスの保護下で保つに留まり、スペイン王国へ統合されていくこととなる。

  1. フアン3世(ナバラ王) 1484–1516
  2. エンリケ2世(ナバラ王) 1517年–1555年
  3. フアナ3世(ジャンヌ・ダルブレ)1555年–1572年

ブルボン家 1572年–1620年

  1. アントニオ(ヴァンドーム公) 1555年-1562年
  2. エンリケ3世(フランス王) 1572年–1610年
  3. ルイス2世(フランス王) 1610年–1620年
  • 1589年、ナバラ国王エンリケ3世がアンリ4世(フランス王)になったことで、ナバラ王位は再びフランス王位と合一した。1620年にナバラ王国はフランスに併合されたが、フランス国王は1791年までナバラ国王の称号を用い続け、1814年から1830年までの復古王政期に復活した。
  • ナヴァールはベアルヌ公領と統合し、フランスの州となった。
  • カルリスタのスペイン王位請求者はカルリスタ戦争中にスパイン・ナバラで勢力を誇ったが、その一派の請求は普通はスペイン全土の王号であった。

現在の君主および王位請求者

  • フェリペ6世(スペイン王) – フェルナンド2世(アラゴン王)による相続と征服の結果獲得された数多くの称号の一つとして、ナバラ国王の称号を用いている。
  • ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボン – ブラン・デスパーニュと呼ばれる現在のフランス及びナバラ王位請求者。ルイ13世(フランス王)以降のナバラ王位のフランス王位への統合にともなう、サリカ法による相続に基づく。
  • アリシア・デ・ボルボン=パルマ – スペイン王子未亡人。自身の息子の公式ホームページにおいて、伝統的な親族間の男系優先の長子相続に基づく現在のナバラ王位の請求者であることが言及されている。

参考: Wikipedia

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