アラゴン十字軍
アラゴン十字軍 Setge de Girona de 1285

アラゴン十字軍


アラゴン十字軍
1284年にシャルル・ダンジューと親密なマルティヌス4世(ローマ教皇)は、ペドロ3世(アラゴン王)とペドロ3世を応援してシチリア島を略奪した東ローマ帝国国王を破門し、シャルル・ダンジュー(カルロ1世(シチリア王))の甥フィリップ3世(フランス王)の四男ヴァロワ伯シャルルにアラゴン王国を授るために行われた十字軍遠征。

アラゴン十字軍

1284年にシャルル・ダンジューと親密なマルティヌス4世(ローマ教皇)は、ペドロ3世(アラゴン王)とペドロ3世を応援してシチリア島を略奪した東ローマ帝国国王を破門し、シャルル・ダンジュー(カルロ1世(シチリア王))の甥フィリップ3世(フランス王)の四男ヴァロワ伯シャルルにアラゴン王国を授けた。

ペドロ3世(アラゴン王)は、フランスがアラゴン侵攻を準備していた間、自国の不安な情勢に対処していた。ペドロ3世(アラゴン王)はアルバラシンを反逆貴族フアン・ヌニェス1世・デ・ララから奪回し、サンチョ4世(カスティーリャ王)と新たに同盟し、フィリップ3世(フランス王)の次男のフェリペ1世(ナバラ王)(後のフィリップ4世(フランス王))による正面攻撃を防ぐのを試みるため、トゥデラを攻撃した 。

1283年にペドロ3世(アラゴン王)の弟であるジャウメ2世(マヨルカ国王)はフランス側に加勢して、そのモンペリエ全土の領有権を認めてバレアレス諸島及びルシヨンを自由に航行出来るようにした。
同時にジャウメ2世(マヨルカ国王)は、ルシヨン伯領を継承していたことから、フランスとアラゴンの間に立っていたのである。
ペドロ3世(アラゴン王)はジャウメ2世(マヨルカ国王)が若いという理由でその継承に反対したことから、この種の十字軍という形での対抗という顛末を迎えることになった。

1284年にフィリップ3世(フランス王)、シャルル(ヴァロワ伯)親子率いる最初の十字軍がルシヨンに入った。(アラゴン十字軍)
その内訳は、16,000人の騎兵、17,000人の弩弓兵、100,000人の歩兵、及び南フランス港の100艘の艦船であった。

フランス軍がジャウメ2世(マヨルカ国王)を支援したにもかかわらず、現地民はその軍に対して反旗を翻した。
エルヌは「ルシヨンの私生児」と呼ばれたヌノ・サンチェス(ルシヨン伯(1212年〜1242年))の庶子によって果敢に守り抜かれたものの、最終的には屈服し、聖堂は焼き払われて、フランス軍は優位性を保ち続けた。

1285年にフィリップ3世(フランス王)自らがジローナに入城する前に町を包囲した。同都市は頑強に抵抗したにもかかわらず陥落した。
シャルル(ヴァロワ伯)はこの地で、王冠抜きでの戴冠を執り行った。

フランス軍はすぐに退却したが、カタルーニャの海軍提督・ルッジェーロ・ディ・ラウリアの手によってイタリア戦域の戦闘に巻き込まれる羽目となった。
フォルミゲスの戦いでフランス艦隊は敗北し、艦船は破壊された。
シャルル・ダンジューの長男カルロ2世(ナポリ王)は捕虜となり、シャルル・ダンジューは失意のうちに病死した。
その上、フランス軍の陣営は赤痢に襲われ、フィリップ3世(フランス王)自らが感染した。

フランス王位継承者であるフェリペ1世(ナバラ王)(後のフィリップ4世(フランス王))は、一族がピレネー山脈を自由に通行できるよう、ペドロ3世(アラゴン王)との交渉を開始した。しかしフランス軍は通行の申し出を受けなかったことから、コル・デ・パニサルスの戦いで完膚までに叩きのめされた。
フィリップ3世(フランス王)は、ペドロ3世(アラゴン王)の支配を恐れて亡命してきたジャウメ2世(マヨルカ国王)の都であったペルピニャンで没し、ナルボンヌに葬られた。

宿敵であるシャルル・ダンジューとフィリップ3世(フランス王)の死と同じ年の11月2日にペドロ3世(アラゴン王)も死去した。

ペドロ3世(アラゴン王)は臨終の際、自らの征服は自らの家名によるもので、決して教会への反逆ではない、と宣告したことで罪の赦しを得た。

1287年6月23日にナポリ付近でアンジュー家が敗北した伯爵の戦いから数年後の1291年に締結されたタラスコン条約により、ペドロ3世(アラゴン王)の後継者である新国王アルフォンソ3世(アラゴン王)は公式にアラゴンを回復し、教会からの破門を外された。

シチリア晩祷戦争 – Wikiwand

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