トゥール・ポワティエ間の戦い
トゥール・ポワティエ間の戦い(ヴェルサイユ宮殿蔵/1834~1837/Charles de Steuben 画)©Public Domain

トゥール・ポワティエ間の戦い


トゥール・ポワティエ間の戦い (732年10月10日)
フランス西部のトゥールとポワティエの間で、西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝フランク王国の間で起こった戦い。フランク王国の宮宰カール・マルテル率いるフランク王国が勝利し、これ以後イスラーム勢力のピレネー以北への進出は食い止められ、フランク社会におけるカール・マルテルおよびカロリング家の地位はいっそう強化された。

トゥール・ポワティエ間の戦い

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

フランク王国の発展とイスラームの侵入

ピピン2世(中ピピン)が没し、その子カール・マルテルが宮宰になった8世紀初頭にはイスラーム軍がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし(711年)、ピレネー山脈を超えてフランク領内に侵入してきた。カール・マルテルは騎士団を編成してこれを迎え撃ち、トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利した(732年)。
カロリング家の権威は絶大なものとなり、マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、751年ザカリアス(ローマ教皇)の同意のもとにメロヴィング家の王国キルデリク3世を廃し、みずから王位についてカロリング朝を開いた。

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トゥール・ポワティエ間の戦い

イスラーム軍の攻撃に耐えかねたアキテーヌ公ウードは、やむをえず北ガリアの支配者であった宿敵カール・マルテルに救援を要請した。マルテル(鉄槌てっついの意)はイスラーム騎兵に対抗するため、重装騎兵を中核とする軍を編成して南下した。イスラーム軍はポワティエを攻め、つづいてキリスト教の聖地のひとつであるトゥールをめざして北上、732年10月ついに両軍は激突した。
有名な戦闘のわりには史料がとぼしく、詳細は明らかではないが、この戦闘でイスラーム側は将軍のアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーを失い、敗退した。そのため、トゥールの聖マルタン修道院はイスラーム軍の略奪から逃れることができた。
また、これ以後イスラーム勢力のピレネー以北への進出は食い止められ、フランク社会におけるカール・マルテルおよびカロリング家の地位はいっそう強化された。ただし、その後イベリア半島と地中海一帯が長らくイスラームの支配下におかれたことを考えると、この戦闘の意義を過大に評価することはできない。

詳説世界史研究

戦争データ

年月日:732年10月10日
場所:フランスのトゥールとポワティエの間
結果:フランク王国の勝利
交戦勢力
フランク王国
ランゴバルド王国
ウマイヤ朝
指導者
カール・マルテル
アキテーヌ公ウード
アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー
戦力
15,000-75,000 60,000-400,000
損害
約1,500 不明(被害甚大)

参考 Wikipedia

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