ピピン3世
ピピン3世 (Louis-Félix Amiel 画/ヴェルサイユ宮殿蔵) ©Public Domain

キルデリク3世

カールマン(フランク王)

ピピン3世 A.D.714〜A.D.768
フランク王国カロリング朝初代国王(在位751年 - 768年)。メロヴィング家の宮宰であるカロリング家のカール=マルテルの子。祖父を中ピピン(ピピン2世)、中ピピンの祖父を大ピピン(ピピン1世)というのに対し、小ピピン(ピピン3世)という。メロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。

ピピン3世

王位の見返りに領土を寄進

短躯王タンクおうカール大帝の父で、カロリング朝の創始者。751年、大司教のボニファティウスから聖別され、フランク王となる。754年には、ステファヌス3世(ローマ教皇)から改めて聖別される。見返りとして、ランゴバルドから奪った領土を教皇に寄進した。

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カロリング朝をひらく

カール・マルテルの子。小ピピンとも呼ばれる。メロヴィング朝を廃し、カロリング朝を創始した。イタリア半島のランゴバルド族を破り、獲得したラヴェンナなどを教皇に献上した(ピピンの寄進)。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

フランク王国の発展とイスラームの侵入

アウストラシアの宮宰であったカロリング家ピピン2世(中ピピン)は、7世紀末に対立するネウストリアの宮宰を打倒し、王国の再統一をはかった。

ピピン2世(中ピピン)が没し、その子カール・マルテルが宮宰になった8世紀初頭にはイスラーム軍がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし(711年)、ピレネー山脈を超えてフランク領内に侵入してきた。カール・マルテルは騎士団を編成してこれを迎え撃ち、トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利した(732年)。
カロリング家の権威は絶大なものとなり、マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、751年ザカリアス(ローマ教皇)の同意のもとにメロヴィング家の王国キルデリク3世を廃し、みずから王位についてカロリング朝を開いた。

ローマ・カトリック教会の成長

東西両教会の対立を深めたもうひとつの要因に、聖像崇拝論争がある。元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要から、ローマ教会は聖像(キリストや聖者の画像・彫像)の使用を容認した。しかし、東ローマ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、また皇帝専制の障害となる修道院勢力が聖像崇拝派であったことなどから、726年、東ローマ帝国イサウリア朝初代皇帝レオン3世(717〜741)は聖像禁止令を発布した。その結果、ローマ教会は東ローマ帝国にかわる政治勢力を新たに求めるようになった。

そこに登場したのがフランク王国の宮宰カール・マルテルである。カール・マルテルはイスラーム軍を撃退し、フランク王国の実質的な支配者となっていたが、メロヴィング王家にとってかわるためになんらかの権威が必要であった。また、ランゴバルド王国の南下に苦しむローマ教皇も、有力な保護者を待ち望んでいた。そこで751年、ピピン3世(小ピピン)がクーデターにより即位すると、教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてイタリア遠征をおこない(754、756)、ランゴバルド人を討って領土を奪い、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇に献じた。このいわゆる「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。

子女

  • カール(742年 – 814年) – フランク王(カール大帝)
  • カールマン(751年 – 771年) – フランク王
  • ピピン(756年 – 762年)
  • ギゼラ(757年 – 811年) – シェル女子修道院長
  • ベルト
  • ロタイド
  • アデライド

Wikipediaより

フランク王系図

フランク王系図
フランク王系図 ©世界の歴史まっぷ
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