ヘンリー8世(イングランド王) ルネサンス
ヘンリー8世の肖像 (ハンス・ホルバイン作/ウォーカー・アート・ギャラリー蔵) ©Public Domain

ヘンリー8世(イングランド王)


ヘンリー8世(イングランド王) A.D.1491〜A.D.1547

イングランドテューダー朝第2代王(在位1509年4月22日 - 1547年1月28日)。ルターの宗教改革に異を唱える。首長法を配布しイギリス国教会を独立させる。中央集権体制を強化し、絶対王政を確立。

ヘンリー8世(イングランド王)

宗教改革に反駁はんばくした「信仰の擁護者」

18歳で即位したヘンリー8世(イングランド王)は、その年に兄アーサー・テューダーの未亡人キャサリン・オブ・アラゴンと結婚した。キャサリンはスペイン女王イサベル1世(カスティーリャ女王)の娘である。

多国語に通じて頭脳明晰、スポーツ万能で、音楽や舞踏にも造詣ぞうけいが深く、自作の楽曲も残している。信心深いカトリック教徒で、マルティン・ルターの宗教改革に対して反論の論文を発表し、レオ10世(ローマ教皇)から「信仰の擁護者」との称号を得た。

ヘンリー8世を悩ませていたのが世継ぎ問題だった。妻のキャサリンには健康な男児ができなかった。ヘンリー8世は、すでに恋に落ちていたキャサリンの侍女じじょアン・ブーリンとの結婚を望むようになる。

ところがカトリックでは離婚が認められないため、ヘンリー8世はこれまでの自分の篤実とくじつな信仰を訴え、クレメンス7世(ローマ教皇)に離婚許可を懇願した。しかし国王とはいえ特例は認められるわけもなく、ましてキャサリンはカール5世(神聖ローマ皇帝)の叔母にあたるため、却下された。

離婚願望のためカトリックからイギリス国教会を独立させる

アン・ブーリンの妊娠もわかったため、ヘンリー8世は離婚を断行し、教皇と対立した。議会を通して教皇への上納税廃止を決定し、さらには「国王至上法(首長法)」を配布し、イギリス国王を「唯一最高の教会の首長」とした。これは、イギリス国教会をローマ教会から分離・独立させた、宗教改革であった。これに反対した大法官トマス・モアをあっさり処刑している。

イギリス国教会は、宗教改革といっても、教義内容はカトリックだった。元来カトリックだったヘンリー8世は、晩年、カール5世(神聖ローマ皇帝)との同盟関係が破棄されたため、教義の新教化をおこなった。

ところがアン・ブーリンが産んだのはまたしても女児、後のエリザベス1世(イングランド女王)だった。その後も流産に終わり、結婚3年後、アン・ブーリンは姦通罪の罪をきせられ、ロンドン塔で処刑された。

処刑の10日後、ヘンリー8世は、アン・ブーリンの女官ジェーン・シーモアと結婚する。シーモアは待望の男児(後のエドワード6世(イングランド王))を産むが、その直後に急逝した。

ヘンリー8世が次に結婚したのは、ドイツの新教徒のアン・オブ・クレーヴス。王側近がヘンリー8世好みの肖像画を用意して結婚を承諾させたが、実物があまりにもかけ離れていたため、ヘンリー8世は夜を共にすることもないまま、半年後に離婚したという。

ヘンリー8世が注目したのは、むしろアン・オブ・クレーヴスの侍女キャサリン・ハワード。2番目のアン・ブーリンの従妹であった。しかしハワードも姦通罪の嫌疑で処刑された。

最後に王妃となったのがキャサリン・パー。結婚4年後、病床のヘンリー8世を看取った。キャサリンは、エリザベスやエドワードを献身的に育てたといわれる。

晩年のヘンリー8世は、イギリス国教の教義をプロテスタント寄りに変えていった。さらに、カトリック系の施設を廃止し、旧教系貴族を弾圧した。

外交ではアイルランド支配を強化、海軍を充実、内政では貴族勢力を抑え中央集権化を強めた。イギリス絶対王政を確立した王である。

梅毒に侵されていた脳

ヘンリー8世は肥満体で潰瘍世疾患を患っていたほか、梅毒にも罹患していたとされる。ふたりの妃を処刑するなど、年齢とともに増大した残忍性と、狂気のうちの臨終は、脳が侵されたためと考えられる。後に「血のメアリ」と呼ばれるメアリー1世も、先天性梅毒だったと推定される。

ヘンリー8世の家臣トマス・クロムウェルらがアン・オブ・クレーヴスの肖像画を描かせたのは、宮廷画家のハンス・ホルバイン。怒ったヘンリー8世は、ホルバインを追放、トマスを斬首刑に処した。
リーズ城
リーズ城 (Leeds Castle) Wikipedia

イギリス南東部にあるリーズ城。12世紀に創建され、現在見られる姿に改装したのはヘンリー8世である。歴代の王妃6人が住んだため、「貴婦人の館」と称される。

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近代ヨーロッパの成立

宗教革命

イギリス国教会の成立
イギリス国教会の成立
ヘンリー8世の家族:チューダーの継承の寓意(Lucas de Heere画/National Museum Cardiff蔵)©Public Domain

ヘンリー8世(中央)の離婚問題に端を発したイギリス宗教改革では、彼が1534年に首長法を発布し、イギリス国教会を設立した。エドワード6世(ヘンリの右脇)が一般祈祷書を制定して教義が新教化された。のちにフェリペ2世となる皇太子と結婚したメアリー1世(ヘンリの左脇)がカトリックの復活をはかったが、エリザベス1世(ヘンリの右から2人目)が1559年に統一法を公布してイギリス国教会を確立した。

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イギリス(イングランド)では、バラ戦争の終結後成立したテューダー朝のもとで中央集権化が進められ絶対王政が成立した。伝統的な信仰にとらわれている広範な民衆がいる一方、ルターの改革思想に共鳴し、また教皇のイギリス教会支配や教会による富の保有に批判的な国民意識も醸成じょうせいされつつあった。イギリスの宗教改革は、絶対王政の政治的・経済的利害に動かされたものではあったが、イギリスの国民意識や利害感情のうえにたち、国内でこれを支持する人々も多くいたのである。

ヘンリー8世(イングランド王)(位1509〜1547)は伝統の信仰に忠実で、ローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられていた。彼は、兄の死後その妻であったスペインのアラゴン王家出身のキャサリンを妃に迎えたが嫡子に恵まれず、彼女と離婚し、宮廷の若い侍女アン・ブーリンとの結婚を望んだ。しかし、スペイン国王兼ドイツ皇帝カール5世(神聖ローマ皇帝)の伯母でもあるキャサリンとの結婚の解消は、教皇の承認をえられなかった。

結婚問題について別の解決を求めたヘンリー8世(イングランド王)は、ケンブリッジ大学教授トマス・クランマーの示唆により、キャサリンとの結婚を無効とし、クランマーをカンタベリ大司教にし、アンとの結婚の合法性を認めさせた。これに対し教皇が破門をもって応えると、1534年国王至上法(首長法)を発布し、国王をイギリス国教会の唯一最高の首長とし、ローマから分離したイギリス国教会を成立させた。これに反対した『ユートピア』の著者として名高いトマス・モアらは処刑された。さらにヘンリー8世は、王の首長権を拒否した多数の修道院に圧迫を加えたばかりでなく、さらにその財産奪取を目的に修道院を解散させた。修道院の財産の没収によって、王室の財政基盤は強化された。教会組織としてはカトリックから独立していたが、イギリス国教会は教義や儀式などの点で、カトリックの伝統を多く残していた。当時イギリスでは、教皇の権威の復活を望むカトリックもいたが、教義や儀式では根本的改革は望まず、ただイギリスの教会を教皇の支配から切り離すことで満足していた人々が多数を占めていた。しかし、大陸の宗教改革のように、教義その他でいっそうの改革を進めようとする人々もいた。

次のエドワード6世(イングランド王)(位1547〜1553)の時代、英語で書かれた共通祈祷書や信仰箇条が制定され、国教会にもカルヴァン派の教義がとりいれられたが、それは旧教と新教の中間的な特色をもつものであった。エドワードのあと即位したメアリ1世(イングランド女王)(位1553〜1558)は離婚されたキャサリンの娘であった。彼女はカトリックを復活し、ローマとの関係を回復し、旧教国スペインの王子フェリペ(のちのフェリペ2世(スペイン王))と結婚した。反カトリックの「異端」に対する厳しい弾圧は「ブラッディ・メアリー」の名を残し、イギリス人の間に反教皇的な傾向を助長させることとなった。

不人気なメアリー1世(イングランド女王)の死後、1558年アン・ブーリンの娘エリザベス1世(イングランド女王)(位1558〜1603)が即位した。彼女は国王至上法を復活し、統一法で共通祈祷書の使用を義務づけ、儀礼・礼拝の形式を定め、イギリスを再び国教会にもどした。さらに1571年、39カ条の信仰箇条が定められた。これが現在でもイギリス国教会の教義の綱領こうりょうの役目を果たしている。

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世界遺産

カンタベリー大聖堂
カンタベリー大聖堂 Wikipedia

ヘンリー8世ゆかりのイギリス国教会の総本山カンタベリー大聖堂。1988年世界遺産に登録された。

子女

  • 最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの間には娘1人だけが成育した。
    メアリー1世(イングランド女王)(1516年 – 1558年) – イングランド女王、1554年にフェリペ2世(スペイン王)と結婚
  • 2番目の妻アン・ブーリンとの間には娘1人だけが成育した。
    エリザベス1世(イングランド女王)(1533年 – 1603年) – イングランド女王
  • 3番目の妻ジェーン・シーモアとの間には息子1人をもうけた。
    エドワード6世(イングランド王)(1537年 – 1553年) – イングランド王
  • 非嫡出子
    ヘンリー・フィッツロイ(初代リッチモンド公爵)(1519年 – 1536年)エリザベス・ブラント所生 – 初代リッチモンド公爵およびサマセット公爵

参考 Wikipedia

ヘンリー8世(イングランド王)が登場する作品

THE TUDORS〜背徳の王冠〜

ブーリン家の姉妹

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