ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)
ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)


フリードリヒ3世

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ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) Wilhelm( A.D.1859〜A.D.1941)

ドイツ皇帝(在位1888〜1918)。ビスマルクを罷免し、海軍の拡張による「世界政策」と呼ばれる帝国主義を開始すると、イギリス・フランスとの対立が激化して第一次世界大戦となった。大戦末期のドイツ革命で退位してオランダに亡命し、ホーエンツォレルン家の支配が終焉した。

ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)

  • ドイツ皇帝(在位1888〜1918)。ビスマルクを罷免し、海軍の拡張による「世界政策」と呼ばれる帝国主義を開始すると、イギリス・フランスとの対立が激化して第一次世界大戦となった。大戦末期のドイツ革命で退位してオランダに亡命し、ホーエンツォレルン家の支配が終焉した。
  • 1890年、内外政策で対立したビスマルクを引退させ、「世界政策」を採用してイギリスと対立を深めた。第一次世界大戦末期、ドイツ革命が勃発して退位・亡命した。
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帝国を崩壊に導いた未熟な権力者

ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) は29歳で即位した。祖父ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)を継いだ父が在位わずか99日で崩御したためである。祖父とドイツ帝国を築いたビスマルクは75歳。まだ現役で、列強と結び仇敵きゅうてきフランスを孤立させる「ビスマルク体制」という絶妙のパワーバランスを操っていた。憧れの鉄血宰相に存在感を示そうとしたのだろうか。だとすれば、すべては裏目に出た。まず宰相を罷免ひめんし親政に切り替えた。前後して独露再保障条約の更新を拒否、露仏同盟の成立を自ら促してしまう。さらに「ドイツは満ち足りた」と領土的野心のなさを示したビスマルクとは反対に帝国主義政策を推進し、英仏露に警戒心を抱かせた。そして、サライェヴォ事件に関しオーストリア皇帝に対セルビア強硬策を進め、第一次世界大戦を引き起こさせるのである。即位から20年も経ずにドイツは孤立、30年後に帝国は崩壊。大戦にも敗北し、最後の皇帝は退位しオランダへ亡命する。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

帝国主義とアジアの民族運動

世界分割と列強対立

アフリカの植民地化

ドイツはベルリン会議を機に1880年代半ばに、南西アフリカ(現ナミビア)・カメルーン・トーゴランド・東アフリカ(タンガニーカ)の領有権を獲得したが、いずれも経済上の利益をもたらすものではなかった。ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の時代には、植民地を領有することは列強としての存在感を示すための政策とうけとめられるようになった。1904年以後、英・仏の接近に不安を感じたドイツは、フランスのモロッコ支配に異議を唱えて2度にわたりモロッコ事件を引きおこしたが、モロッコはフランスの保護国となった。

帝国主義と列強の展開

フランス

ドイツ帝国でヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) が即位し、世界政策を展開して海外進出を積極化させる1890年には、フランスをめぐる国際情勢は大きく変わった。まず、露仏同盟(1894年)を結んで国際的孤立を脱し、イギリスとは北アフリカ・北米・タイなどでの利害を調整し、1904年には、日露戦争後の国際情勢に対処するため英仏協商を結んだ。

ドイツ

ドイツ帝国では、ビスマルクがヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)との強い信頼関係の長期政権を維持していたが、現状維持的な政策には手詰まり感が漂いはじめていた。1888年、ヴィルヘルム1世が高齢で亡くなった。イギリス流の自由主義的な思想をもつと目されていたフリードリヒ3世(ドイツ皇帝)が帝位を継いだが、3ヶ月余の治世で咽頭がんのため病没し、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) (位1888〜1918)が29歳で新皇帝に 即位した。折から、ルール地方の鉱山労働者から始まったストライキが全国に広まりつつあり、若い皇帝は労働者勢力を体制側に取りこもうと社会主義者鎮圧法の延長を拒否してビスマルクと対立した。ビスマルクは1890年の帝国議会選挙に敗れて辞任した。ビスマルクの失脚はドイツ外交にも影響した。期限切れの迫っていたロシアとの再保障条約は、三国同盟などと矛盾することを理由に、更新されなかった。

ヴィルヘルム2世と「黄禍論」
黄禍論
黄禍の図(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の母親であるヴィクトリアは、同名の偉大なイギリス女王ビクトリアとアルバート公の間に生まれた長女であった。したがって、ヴィルヘルムはヴィクトリア女王の孫にあたる。両親の方針で甘えの許されぬ、きわめて厳格な育てられかたをしたため、ヴィルヘルムは母親が実家からもたらしたリベラリズムに反発し、保守的な政治信条を抱くにいたった。皇帝は人種論的な進化論に彩られた白人優越論の信奉者しんぽうしゃであり、黄禍論おうかろんの初期の提唱者となった。黄禍論とは、自分たちよりも劣っているはずのアジアの黄色人種が世界とヨーロッパに災いをもたらすであろうという政治宣伝である。1895年ころ、ヴィルヘルム2世は母方の従姉妹の配偶者であるロシア皇帝ニコライ2世に「黄禍論の図」を贈り、中国への警戒心をあおった。画面右では、もうもうたる雲気から仏陀の姿がわきあがり、画面左にはヨーロッパの諸民族を形象化した女神たち(マリアンヌ=フランス、ゲルマニア=ドイツなど)がキリスト教の守護天使ミカエルとともに仏教と野蛮の侵入を武装して迎え撃とうとしている。東南アジアに古くから華人社会をきずいている中国人は将来の通商上のライヴァルとみなされ、義和団事件の勃発や日露戦争での日本の勝利もあったりして、モンゴルやオスマン帝国の侵入をうけてきたヨーロッパは未来への漠然たる不安感を抱いたのである。

プロイセンのユンカー層は軍と官僚組織を掌握してドイツ帝国に権威主義的性格を与えつづけた。しかし、農業に依存するユンカーの経済的地位の低下と政治への強い影響力との間の不釣り合いがめだつようになってきた。それだけに、市民的諸勢力が帝国議会の政党を通じて政策決定に影響をおよぼすことも可能となった。しかし、ブルジョワジーのなかには貴族風の生活スタイルを模倣したり、子弟に将校のキャリアをつませるなど、上層市民の「封建化」と呼ばれる現象も現れた。1890年代後半、ヴィルヘルム2世は、重工業家とユンカーという帝国の二大エリートの利害を調整しつつ、帝国主義的な膨張政策を特徴とする「世界政策」に乗りだした。海軍の増強と植民地の獲得は産業界の利益となり、それとひきかえに東エルベの農業エリートに有利なように穀物関税が引き上げられた 。「陽のあたる場所を求めて」世界へ進出するにはイギリスに対抗する海軍力が必要と考えられ、ティルピッツ提督 Tirpitz (1849〜1930)のもとで海軍の大幅な拡張計画が実施された。イギリスも巨砲主義の大型戦艦を建造して建艦競争に乗りだし、国際関係は英・独の対抗軸を中心に展開するようになった。

そのため、穀物輸出国であるロシアとの関係は悪化した。また、都市の消費者の生活を圧迫するものであったので、労働者のための社会福祉制度が設けられた。このように、さまざまな社会層や利益集団の利害を調整し、「結集」する必要があった。
資本主義の変質

19世紀後半には石油電力を動力源に使う新しい工業や技術が開発され、重化学工業・電気工業などを中心に工業生産は飛躍的に拡大していった。これは、第2次産業革命と呼ばれる。新技術により、鉄鋼のほかアルミニウム・ニッケルなどの非鉄金属が大量に生産され、染料・肥料・ゴム・繊維などの化学合成物質も生産されるようになった。また、内燃機関・電動機・電灯・電話・ラジオ・自動車なども実用化されて経済活動と日常生活は大きく変貌していった。これらの巨大な新産業分野の発展を先導したのはアメリカ合衆国ドイツであり、世紀末までには工業生産の1位、2位を占めるようになった。ドイツのヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) は高等教育機関での科学技術の開発を熱心に助成し、ドイツでは工科系の専門大学も教養重視の総合大学と同等の地位をえるようになった。その結果、すぐれた科学者を輩出したドイツは世界の大学の手本となった。

世界分割と列強対立

同盟外交の展開と列強の二極分化

イギリスは南アフリカ戦争に勝利したもののその強引なやり方に内外の強い非難を浴びたため、外交的孤立の不利益を悟るようになった。同盟政治の転換は極東からおきた。イギリスは、ジョゼフ=チェンバレン植民相がドイツとの同盟を模索したことがあり、義和団事件後のロシアの南下政策の脅威に対処するため、ドイツとの同盟交渉を望んだ。しかし、この交渉はドイツ側がロシアとの友好関係も容認したため不調に終わった。そこで、1902年、イギリスは、中国東北地方に大軍を駐留させて朝鮮半島へ圧力を行使しようとするロシアの動きを警戒する日本との間に日英同盟を結んだ。イギリスにとっては、この同盟がロシアの太平洋岸進出を牽制し、ロシア・フランス・ドイツ3国による中国分割を阻止することが期待された。しかし、1904年、日露戦争が勃発すると、日英同盟・露仏同盟のためにイギリスとフランスも戦争に巻き込まれる可能性が生じた。すでにファショダ事件の処理でも明らかになっていたように、アフリカでの植民地問題に妥協が成り立っていた英仏両国は1904年英仏協商を結び、流動化する国際関係に備えた。両国の同盟の効果は 第1次モロッコ事件 (1905)で現れた。すなわち、英仏協商でフランスのモロッコ支配が保障されたことにドイツは反発し、1905年、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) はみずからタンジールに上陸してスルタンと会見し、モロッコの主権を強調した。翌年、ドイツの要求を協議する国際会議がスペインのアルヘシラスで開催された。この会議でイギリス・ロシアばかりでなくイタリア・アメリカもフランスを支持したため、ドイツは孤立した。

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

合衆国の参戦と戦争の終結

1918年1月、ウィルソン大統領は、レーニンのおこなった和平提案や秘密条約の公表に対抗し、革命の広がりを阻止するために、秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決などからなる十四カ条の平和原則を発表した。3月、ドイツ軍の攻勢をうけたソヴィエト政府はドイツなどとの単独講和にふみきり、ブレスト=リトフスク条約 Brest-Litovsk を締結して戦線から離脱した。ドイツは東部戦線の兵力を西部方面に投入して最後の大攻勢をかけたが、補給不足のため進撃は停止した。9月にはブルガリア、10月にオスマン帝国、11月にはオーストリアも単独休戦をおこない、皇帝はスイスに亡命した。残されたドイツの軍部はもはや勝利の見込みのないことを悟り議会指導者に政権をゆだねた。これをうけ、責任内閣制をもつ本格的な議会政治の体制が整えられ、ドイツ政府はアメリカ大統領と休戦交渉に入った。ところが、それまで目立った戦いをしてこなかった海軍の指導部が最後の絶望的な出動を命じた。11月3日、かねてから待遇に不満をもっていた水兵はキール軍港で蜂起した(キール軍港水兵反乱)。即時講和を求めた水兵の反乱は革命となって全国に運動は広まった。革命の波はベルリンに押し寄せ共和国の成立が宣言されると、11月10日、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) はオランダに亡命し、国内の諸君主も退位した。1918年11月11日、新共和国政府はコンピエーヌの森で連合国 と休戦協定を結び、戦争は終わった。

ブレスト=リトフスクはベラルーシの都市で、ロシア側の全権はトロツキーであった。この条約で、フィンランドとウクライナは独立し、ロシアが放棄したポーランド・バルト地域は事実上ドイツの支配下に入った。大戦後、ドイツと連合国 との休戦協定により破棄された。

ヴェルサイユ体制下の欧米諸国

パリ講和会議 とヴェルサイユ条約

ドイツ側は条約の個々の内容にもまして、交渉無しの一方的通告、戦争責任条項、さらにヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) ( ヴィルヘルム2世と「黄禍論」)など主要責任者の国際法廷への訴追など、大国としてのドイツの名誉や体面にかかわる条項、それまでの国際慣例にはなかった新規項目を中心に批判した。賠償額については、すでに当時から連合国 内部でもそれが課題になることに懸念があり、それらを含めてヴェルサイユ条約はドイツに対して過酷であるとする見方は長い間定説となっていた。しかし近年、これはドイツ側の主張に引きずられて条約のマイナス面だけを強調し、たとえばドイツの国土が占領されず、領土も基本部分では保全され、また経済構造も手つかずで残され、さらに軍事制限も国際的な軍縮の先取りと位置づけられていることなどが十分考慮されていないと批判されるようになった。現在では当時の状況を考慮に入れれば比較的寛大で、問題の多くは条約自体より、むしろその後の対応にあったとする見方が有力になっている。

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近代国家の成立

日露戦争と国際関係

列強の中国分割

19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成したころ、欧米先進資本主義諸国は早くも帝国主義段階に突入しようとしていた。諸列強は生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合ったが、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられた。

列強の世界政策

イギリスはすでに1875年にスエズ運河株を買収し、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に就任してインドを完全に自国の領土とし、1880年代にはビルマ(現、ミャンマー)を併合するなど、ロシアと対立しつつ勢力を東へ仲ばすー方、フランスと対立しつつアフリカ分割を進めた。フランスは1884年、清仏戦争をおこして翌年にベトナムを保護国とし、1887年には仏領インドシナ連邦を形成した。ドイツは、1870年代から80年代に南太平洋の島々を植民地としたが、1890年にはそれまでヨーロッパの現状維持につとめていたビスマルク( Bismarck, 1815〜98)が失脚して、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) ( WilhelmII、 在位1888〜1918)の親政のもとに、積極的な世界政策を進めた。ロシアはツアーリの専制のもとに、1877年、露土戦争でオスマン帝国を撃破してバルカンに南下するとともに、1890年代にはシベリア鉄道の建設を進めるなど、アジアヘも進出を続けた。また、アメリカも遅ればせながら、1860年代末、太平洋横断の定期航路を開いて東アジア貿易をイギリスと競い、1898年にはハワイを併合し、さらにスペインと戦って(米西戦争)、フィリピンを植民地とした。

アジア諸地域の動揺
中国のケーキ(アンリ・マイヤー画/フランス国立図書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

日清戦争終結から3年後、列強がこぞって中国を分割する様を描いています。この年、各国による租借、占領、割譲などが次々に行われました。図の左からイギリスのヴィクトリア女王、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) 、ロシアのニコライ2世、フランスの象徴である女性像マリアンヌ、そして日本を象徴するサムライ。背後には清国人がなすすべもなく手を上げています。 参考: おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)

満州進出と日米摩擦

このように日本は東アジアの強国となり、急速に勢力を拡大し、欧米列強諸国に伍して国際政局で大きな影響力をもつようになった。国際社会において欧米列強と肩を並べる強国を建設するという明治維新以来の日本の目標は、ひとまず達成されたといえよう。しかし、日本の強国化、とくに満州への勢力拡大は、日本に対する列強の警戒心を高め、黄禍論こうかろん(イエロー=ペリル、 YellowPeril ) の矛先が主として日本に向けられるようになった。

黄禍論
“The Yellow Terror In All His Glory”(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

黄禍論:黄色人種が白人をアジアから駆除しようとするのではないかと警戒し、ヨーロッパ諸国はキリスト教文明をまもるためにこれと対決すべきであるとする主張で、すでに日清戦争直後から、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) らが盛んに唱えていた。
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同時代の人物

原敬 (1856〜1921)

「平民宰相」と呼ばれた総理大臣。ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)が退位した1918(大正7)年、初の本格的政党内閣を組閣。3年後、東京駅で右翼青年に刺殺された。

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