新田義貞
新田義貞 生田林の戦に於て小山田高家義貞の身代りとなる(笠井鳳斎原画/土屋光逸画)©Public Domain

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新田義貞 にったよしさだ ( A.D.1300〜A.D.1338)
護良親王の令旨を擁して鎌倉幕府に謀反。鎌倉を攻め幕府を減ばした。建武政権下では重用されたものの、足利尊氏との対抗から後醍醐天皇に従って各地を転戦。越前で戦死した。

新田義貞

後醍醐のために戦い越前に散った悲将

胸中のしこりとなった足利への対抗意識

新田義貞にったよしさだにとって面白くなかったのは、同じ源氏であるのに、足利氏ばかりが重用されている
ことだった。
義貞に転機が訪れるのは1332年(元弘2)のこと。河内の楠木正成攻めの際は、幕府軍に従うが、気乗りしない義貞は病気と称して帰国してしまう。報復として幕府が新田荘に対して莫大な雑税を課すと、義貞は徴税使を斬って幕府へ反旗をひるがえした。
義貞は時勢を得た。義貞のもとへは北条へ不満をもつ武者が集結して鎌倉は陥落した。幕府減亡に功のあった義貞だが、建武政権ではうまく立ち回れない。中先代の乱を平定した尊氏は、あろうことか新田一族の所領を取り上げて諸将への恩賞とした。

こうして始まった足利尊氏新田義貞の確執はエスカレートし、醍醐天皇は結局、新田義貞を軍事的支柱として選ぶこととなった。
やがて、尊氏は後醍醐天皇に謀反し、両軍は激しい戦いを繰り返した。だが、義貞にとって思わぬことが起こる。楠木正成の死後、後醍醐天皇が尊氏との和睦をいい出したのである。義貞は、涙ながらに反対するが、義貞は越前へと遠ざけられ、越前国灯明寺畷で戦死した。
明治時代になって正一位を贈られる。

無駄死に:義貞は「われひとり死を逃れるは本意にあらず」と敵中に突進して討ち取られた。『太平記』はこの死を「武将の地位にある者は、身を慎み、命をまっとうしてこそ大義の功」と批判的だ。

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武家社会の成長

室町幕府の成立

鎌倉幕府の滅亡

足利尊氏の離反は、形成を凝視していた全国の武士たちに決定的な影響を与えた。彼らは先を争って討幕の軍に身を投じ、各地の幕府・北条氏の拠点を攻撃した。高氏は赤松円心らと六波羅を攻め落とした。関東では鎌倉を脱出した高氏の子千寿王せんじゅおう(のちの足利義詮あしかがよしあきら)のもとに、武士たちが続々と集結した。源氏一門の新田義貞にったよしさだ(1301〜38)がこの大軍を指揮し、鎌倉に攻め入った。激戦の末に北条氏は敗れ、北条高時以下北条氏一族と主だった御内人はつぎつぎと自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。1333(元弘3)年5月、高氏の挙兵からわずか1ヶ月のちのことであった。後醍醐天皇は伯耆をあとにし、途中、光厳天皇の廃位を宣し、京都に帰った。ここに、後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生したのだった。

建武の新政
建武新政時の戦い地図 建武の新政
建武新政時の戦い地図 ©世界の歴史まっぷ

新政府は尊氏を討伐するために新田義貞を派遣した。新田氏は足利氏と出自を同じくする名門だが、鎌倉時代を通じて恵まれない状況にあった。後醍醐天皇は不遇の義貞に注目して新政府で重要な地位を与え、尊氏を牽制する役割を担わせていた。足利軍と新田軍は箱根の竹ノ下に戦い、敗れた義貞は京都へ敗走した。尊氏はこれを追いかけて西上し、京都に進入した。

南北朝の動乱

南朝が真の意味で北朝と戦えたのは、 ごく短期間にすぎない。1338(延元3、暦応元)年、奥州から再び上京してきた北畠顕家きたばたけあきいえが京都への進軍を阻止されて戦死し、ついで新田義貞が越前で勢力圏づくりに失敗して戦死すると、南朝は主要な戦力を失ってしまう。後醍醐天皇は失意のうちに吉野で死去し、以後は北畠親房きたばたけちかふさ(1293~ 1354)の主導のもとに、東北・関東・九州などに残った数少ない勢力圏を拠点として抵抗を続けた。

参考

詳説日本史研究

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死去
1338年8月17日
埋葬
福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺 茨城県龍ケ崎市若柴町の金竜寺
子女
義顕、義興、義宗、他
父親
新田朝氏
母親
不詳