万葉集と文学
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万葉集と文学

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万葉集と文学

日本在来の文学である和歌も天皇から庶民にいたるまで多くの人々によって広く詠まれたが、『万葉集』は、759(天平宝字3)年までのそうした歌約4500首を収録した歌集である。歴史書とともに、713(和銅6)年には諸国に対して郷土の産物、山川原野の名の由来、古老の伝承などの筆録が命じられ、全国的な地誌の編纂が行われた(『風土記』)。

万葉集と文学

歴史書とともに、713(和銅6)年には諸国に対して郷土の産物、山川原野の名の由来、古老の伝承などの筆録が命じられ、全国的な地誌の編纂が行われた。諸国から撰上せんじょうされた『風土記ふどき』がそれであり、現在常陸ひたち出雲いずも播磨はりま豊後ぶんご肥前ひぜんの5カ国の『風土記』が伝えられている。

このうち、ほぼ完全に残っているのは『出雲国風土記』のみである。

また、奈良時代の貴族や官人には漢詩文を作ることが教養として求められたが、そうした背景のうえに、751(天平勝宝3)年には現存最古の漢詩集『懐風藻かいふうそう』が編まれている。
7世紀の天智天皇時代以来、大友皇子をはじめ大津皇子・長屋王らの漢詩作品が収められている。漢詩文を残した文人としては、淡海三船おうみのみふね石上宅嗣いそのかみのやかつぐらが知られている。石上宅嗣は自邸を寺とし、仏典以外の書物も蔵する今日の図書館のような施設をおいて芸亭うんていと名付け、学問する人々に開放したという。

文人として名高い石上宅嗣が、平城京の私邸を阿閦寺あしゅくじとし、その一郭に仏典以外の書物も蔵する芸亭を設けて、好学の人に閲覧させたもの。日本の図書館の起源ともいわれる。

また、日本在来の文学である和歌も天皇から庶民にいたるまで多くの人々によって広く詠まれたが、『万葉集』は、759(天平宝字3)年までのそうした歌約4500首を収録した歌集である。宮廷の有名歌人のものだけでなく、東国の農民たちの心を伝える東歌や防人歌なども採録され、心情を素直に歌い上げて心に強く訴えかける歌が多くみられる。編集は大伴家持おおとものやかもちともいうが未詳である。

天皇時代までの第1期の歌人としては有間皇子・額田王、続く平城遷都までの第2期の歌人としては柿本人麻呂、天平初年頃までの第3期の歌人としては山上憶良やまのうえのおくら山部赤人やまべのあかひと大伴旅人おおとものたびと、淳仁朝にいたる第4期の歌人としては大伴家持おおとものやかもち・大伴坂上郎女さかのうえのいらつめらが名高い。

古代の教育機関としては、官吏養成のために中央に大学、地方に国学がおかれた。入学者は、大学の場合は五位以上の貴族の子弟や朝廷に文筆で仕えてきたやまと西かわち史部ふひとべの子弟、また国学の場合は郡司の子弟を優先とする限られたものであった。学生がくしょうは、大学を修了し、さらに試験に合格してようやく官人として出仕することができた。
一方で、五位以上の貴族の子や三位以上の上級貴族の子や孫たちには、特権的に官人コースに入る蔭位の制おんいのせいが定められていた。大学の教科は、「論語」「孝経」などの経書を学ぶ明経道みょうぎょうどうや、音・書・算などの諸道があり、のち9世紀には漢文・歴史学的な教科を含む紀伝道が生まれ、重視された。これらの他に、陰陽・暦・天文・医・針・あん摩・呪禁じゅごん・薬などの諸学が陰陽寮や典薬寮などにおいて教授された。

貧窮問答歌

天地あめつちは 広しといへど 吾が為は くやなりぬる 日月は あかしといへど 吾が為は 照りや給はむ 人皆か
吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作るを 綿も無き 布肩衣の 海松みるごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち懸け 伏廬ふせいおの 曲廬まげいおの内に 直土ひたつちに わら解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂えさまよひ かまどには 火気ほけふき立てず こしきには 蜘蛛の巣きて 飯炊いいかしく 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端きると 云えるが如く しもと取る 里長さとおさが声は 寝屋戸ねやどまで 来立ち呼ばひぬ ばかり 術無きものか 世間よのなかの道
世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

『万葉集』原文万葉仮名

天地は広いというが、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。太陽や月は明るく照り輝いて恩恵を与えて下さるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。他の人も皆そうなのだろうか、それとも私だけなのだろうか。たまたま人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも海松のように破れて垂れ下がり、ぼろぼろになったものばかりを肩にかけて、低くつぶれかけた家、曲がって傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊くことも忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、「短いものの端を切る」ということわざと同じように、鞭を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。
この世の中をつらく身も痩せるように耐え難く思うけれども、飛んで行ってしまうこともできない。鳥ではないのだから・・・。