儒学と教育
文学万代の宝(始の巻・末の巻) (一寸子花里画/弘化年間頃/画像出典:東京都立図書館

儒学と教育

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儒学と教育 8代将軍吉宗が、儒学により武士・庶民を教化しようとしたこともあり、民間にも儒学が普及していった。幕府は、寛政の改革で朱子学を正学とし、1797(寛政9)年に官立の昌平坂学問所を設け、朱子学による幕臣の教育機関とした。多くの藩でも藩士子弟を教育するため、藩学や町人による郷学、民間の私塾が開かれた。封建社会では世界にもめずらしいほど初等教育が普及し、識字率も非常に高まった。

儒学と教育

藩学(藩校)・郷学(郷校)

8代将軍吉宗が、儒学により武士・庶民を教化しようとしたこともあり、民間にも儒学が普及していった。18世紀後半には、古学派やいずれの学派にもくみせず、先行の諸学説を選択・折衷して正しい解釈にいたろうとする折衷学派、さらには儒学の古典を確実な典拠に基づいて実証的・客観的に解釈しようとする考証学派が盛んになった。このなかで幕府は、寛政の改革朱子学を正学とし、1797(寛政9)年に官立の昌平坂学問所(昌平ごう)を設けて、朱子学による幕臣の教育機関とした。また18世紀末以降、多くの藩でも藩士子弟を教育するため、藩学(藩校)が新たに設立されたり、充実されるようになった。藩学は、寛政異学の禁の影響もあって、初め朱子学を主とする儒学の講義や武術を教授するものが多かったが、のちには洋学や国学も取り入れ、年齢や学力に応じた学級制も採用された。このような動きは、幕藩体制の動揺を打開するために、幕臣・藩士に対する基礎教育や高等教育の必要性が認識されたからである。そして、城下町を離れた土地にも、ごく早い例としては、17世紀後半に岡山藩主池田光政によって建てられ、藩の援助により藩士や民衆の教育を行う閑谷学校や、18世紀初めに摂津平野郷町の町人が設立した含翠堂がんすいどうのような郷学ごうがく(郷校)もつくられた。

私塾

民間でも、武士・学者・町人によって私塾が開かれ、儒学を中心に国学や洋学などが講義された。なかでも、18世紀初めに大坂町人の出資で設立され、幕府の援助もあって準官立の扱いを受けていた大坂の懐徳堂かいとくどうは、朱子学や陽明学を講義した。そのなかからは、『出定後語しゅつじょうごご』を書いた富永仲基とみながなかもと(1715-46)や『夢の代』を書いた山片蟠桃やまがたばんとう(1748-1821)らの、儒教や仏教など既成の教学を批判する合理的な考え方をもつ異色の学者が生まれた。学頭をつとめた中井竹山なかいちくざん(1730-1804)は、松平定信に政治上の意見書を提出した。また、19世紀に設立された広瀬淡窓ひろせたんそう(1782-1856)による豊後日田ぶんごひた咸宜園かんぎえんや、吉田松陰よしだしょういん(1830-59)が受け継いだ萩の松下村塾しょうかそんじゅくも、幕末の思想家や志士を多く育てた。

寺子屋

儒学と教育
文学万代の宝(始の巻・末の巻) (一寸子花里画/弘化年間頃/画像出典:東京都立図書館

寺子屋の授業風景を描いた二枚続きの錦絵です。「始の巻」では男性の師匠が、「末の巻」では女性の師匠がそれぞれ教えていますが、子どもたちの多くは思い思いの行動を取っていることがわかります。江戸時代の寺子屋は、生徒は必ずしも先生の方を向いて座るわけではなく、教科書も、生徒たちの年齢もばらばら、出席するのも欠席するのも自由でした。  この絵の子どもたちも、おとなしく勉強している子どもはほとんどいません。筆でいたずらをする子、とっくみあいをする子、人形で遊ぶ子など実にさまざまです。また「末の巻」の女性の師匠の後ろに描かれている書物から、読み・書きだけでなく、華道や茶道、香道なども教えていたことがわかります。とはいえ、寺子屋では、道徳や行儀、礼法などについても厳しく指導しており、いたずらがあまりにも過ぎると立たされる、正座させられるなどの罰則規定もあり、教室内には一定の秩序があったようです。 参考:東京都立図書館

庶民の初等教育機関である寺子屋てらこやは、19世紀初めに「教育爆発」と呼ばれるほど、その数が急激に増加した。浪人・村役人・神職·僧侶・富裕な町人などによりつくられ、6〜13歳の子ども20〜30人を集め、読み・書き・そろばんなどの日常生活に必要な教育を行い、儒教的な日常道徳も教えた。

庶民教育

踊獨稽古
心学が教えた善玉悪玉の考えが広まり、踊りにも取り入れられた。「踊獨稽古」(葛飾北斎画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
女子教育も盛んとなり、女子の心得を説いた書物なども出版された。また、18世紀初め、京都の石田梅岩いしだばいがん(1685-1744)は、『都鄙問答とひもんどう』のなかで商業や商人を低くみる当時の社会の風潮に対して、商業・営利の正当性と社会における商人の存在意義を主張し、倹約・正直などの徳目を平易に記した。儒教道徳に仏教や神道を加味した町人道徳を説く梅岩の心学しんがくは、弟子の手島堵庵てしまとあん(1718-86)・中沢道二なかざわどうに(1725-1803)らによって全国的に普及し、また各地の藩に招かれて講義も行った。 これらの庶民教育は、出版の盛行もあって都市のみならず農村にも広まり、封建社会では世界にもめずらしいほど初等教育が普及し、識字率しきじりつも非常に高まった。武士から庶民にいたるまで教育が盛んとなった背景には、幕藩社会の複雑化と行き詰まりがある。