元禄美術
- 庭園:後楽園(岡山)・後楽園(水戸藩邸)・六義園
- 絵画:
- 土佐光起:春秋課長図屏風
- 住吉如慶:東照宮縁起絵巻
- 住吉具慶:洛中洛外図巻
- 尾形光琳:紅白梅図屏風・燕子花図屏風
- 菱川師宣:見返り美人図
- 建築:東大寺大仏殿・善光寺本堂
元禄美術
元禄期の美術・建築
庭園 | 後楽園(岡山)・後楽園(水戸藩邸)・六義園 |
絵画 | 土佐光起 | 春秋花鳥図屏風 |
住吉如慶 | 東照宮縁起絵巻 |
住吉具慶 | 洛中洛外図巻 |
尾形光琳 | 紅白梅図屏風・燕子花図屏風 |
菱川師宣 | 見返り美人図 |
建築 | 東大寺大仏殿・善光寺本堂 |
美術でも幅広い層から名作が生まれ、広範な人々に受容される傾向が生まれた。
絵画
絵画では、幕府や大名に抱えられた
狩野派や朝廷絵師(
絵所預)の
土佐派(大和絵系で
土佐光起 〈1617〜91〉が再輿)、さらに土佐派からわかれた
住吉派(
住吉如慶 〈1599〜1670〉・
住吉具慶 〈1631〜1705〉の父子)が支配層の保護を受けるなかで、安定した絵画作品を制作した。しかし、しだいに清新さに欠けていったことも否めない。
これに対して、町人のなかから生まれた絵画に、新しい時代を感じさせる名品が誕生した。京都の呉服屋(
雁金屋)出身の
尾形光琳(1658〜1716)は、
本阿弥光悦や俵屋宗達の技法を取り入れ、絵画や
蒔絵に新風を吹き込んだ。大和絵の伝統的な装飾と王朝文学趣味をもったこの流派は、
琳派と呼ばれた。光琳の『
紅白梅図屏風』や『
燕子花図屏風』、そのほかの作品は、伝統のなかに斬新な感覚が満ちあふれている。また、光琳の弟
尾形乾山(1663〜1743)は陶器に装飾的な作品を残した。
これらはいずれも高級感のある作品であったのに対して、菱川師宣(?〜1694)や英一蝶(1652〜1724)は、庶民に受け入れ易い風俗画を残した。菱川師宣は、安房国の職人(縫箔師)の家に生まれ、江戸にでて狩野派や土佐派に学んだ。やがて風俗画を描き始めたが、なかでも木版を利用した浮世絵は大最生産が可能になり、庶民でも入手できるようになった。『見返り美人図』などの美人画を、庶民は床の間に掛けたり、屏風に仕立てて楽しんだ。英一蝶は京都の医者の家に生まれ、江戸にでて狩野派に師事していた。しかし菱川師宜の影響を受け、市井の風俗を描くようになった。ー蝶は、遊興生活を理由に幕府から三宅島への遠島を命じられ、のちに江戸にもどるが、それから再び市井の風俗をますます親しみを込めて描写した。
庭園
庭園の分野では、元禄期に将軍が大名屋敷を訪れる
御成の回数が増え、大名側も屋敷に趣向をこらした庭園づくりをするようになった。
柳沢吉保の屋敷である
六義園は、優れた
廻遊式庭園である。小石川の水戸藩邸の
後楽園は
朱舜水の影響がみられ、明風の石造りの橋などがみごとである。また国元でも、岡山の
後楽園のように日本3名園の一つに数えられる廻遊式庭園がつくられた。以上の現存する庭園のほか、残された絵図や発掘調査によって、失われた大名邸の庭固の役割と機能が注目されるようになった。
建築
建築の分野でも、明(王朝)から日本に亡命した
隠元(1592〜1673)は、禅宗の一派である
黄檗宗を開き、本山として山城宇治に
万福寺を建立した。万福寺の伽藍は、中国風の禅寺建築として注目をひく。