化政文学
『春色梅児誉美』芸者米八と仇吉(為永春水作/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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化政文学 江戸時代後期の文学は、政治・社会の出来事や庶民の日常生活が盛んに題材にされ、巧みなさし絵や平易な文章により、一部の知識人層の独占物ではなく、広く民衆に愛好された。

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滑稽本滑稽さをもとに庶民生活を描いた小説浮世風呂・浮世床(式亭三馬)
東海道中膝栗毛(十返舎一九)
合巻黄表紙を数冊綴じ合せた絵入り小説偐紫田舎源氏(柳亭種彦)
人情本町人の恋愛を扱った読物春色梅児誉美(為永春水)
読本勧善懲悪を説いた歴史的伝奇小説南総里見八犬伝・椿説弓張月(曲亭馬琴)
脚本東海道四谷怪談(鶴屋南北)
俳諧おらが春(一茶)
その他菅江真澄遊覧記(菅江真澄)
北越雪譜(鈴木牧之)
参考:詳説日本史研究 江戸時代後期の文学は、政治・社会の出来事や庶民の日常生活が盛んに題材にされ、巧みなさし絵や平易な文章により、一部の知識人層の独占物ではなく、広く民衆に愛好された。 小説では、浮世草子が衰えたあと、表紙の色から赤本・青本・黒本と呼ばれ、さし絵で読者を引きつけた草双紙そうぞうしから発展して江戸の風俗をうがち諷刺ふうしした黄表紙と、江戸の遊里ゆうりの生活を描く洒落本しゃれぼんが流行した。しかし、『仕懸文庫しかけぶんこ』『江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき』を書いた代表的作家である山東京伝さんとうきょうでん(1761-1816)が、寛政の改革で手鎖てぐさり50日の処罰を受けると衰えた。 洒落本からは、文化期に滑稽さや笑いをもとに、庶民の生活を軽妙な会話中心に生き生きと描いた滑稽本こっけいぼんが盛んとなり、銭湯や床屋を舞台にした『浮世風呂』『浮世床』の式亭三馬しきていさんば(1776-1822)や、弥次喜多道中記で知られる『東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ』の十返舎一九じっぺんしゃいっく(1765-1831)が現れた。また、文政期以降、江戸町人の生活、とくに恋愛を主題にした人情本が女性を中心に庶民に受け入れられ、天保期に全盛期を迎えたが、ベストセラーになった『春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ』の為永春水は、天保の改革で処罰された。黄表紙からは、黄表紙の数冊分を綴じ、敵討ち物を中心に芝居の筋書きに影響を受けた合巻ごうかんが生まれ、『偐紫田舎源氏にせむらさきいなかげんじ』の柳亭種彦が代表的作家であるが、天保の改革で弾圧された。 これらの絵入りの本の系統に対し、文章を読むことを主体とした小説が読本よみほんで、歴史や伝説に題材を求めた。『雨月物語』の上田秋成(1734-1809)のあと、寛政期以降、曲亭馬琴(滝沢馬琴 1767-1848)が評判を得た。『南総里見八犬伝』『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』が代表作で、勧善懲悪・因果応報の思想が底流にあった。これらの小説は、1808(文化5)年当時、江戸に665軒もあった貸本屋などを通して庶民にも読まれた。

俳諧

俳諧では、18世紀後半、文人画家としても有名な京都の蕪村ぶそん(1716-83)が、『蕪村七部集』を代表とする絵画的で写実的な句を詠み、化政期には信濃の一茶いっさ(1763-1827)が、家庭的な不幸が続くなか、農村に生きる百姓の生活感情に密着した『おらが春』などを残した。俳諧は農村部にも広まり、富農層を中心に各地にたくさんの俳諧サークルがつくられた。また、『誹風柳多留はいふうやなぎだる』の選者である柄井川柳からいせんりゅう(1718-90)の名にちなんだ俳諧から派生した川柳や、大田南畝おおたなんぽ蜀山人しょくさんじん、1749-1823)・石川雅望いしかわまさもち宿屋飯盛やどやのめしもり、1753-1830)らに代表される和歌から派生した狂歌きょうかが盛んにつくられ、社会や人情の機微きびをうがち、なかには為政者を諷刺したり、世相を皮肉ったりするものも少なくなかった。

和歌

和歌では、化政期から天保期に香川景樹かがわかげき(1768-1843)らの桂園派けいえんはが古今調の平明な歌風をおこしたが、一般庶民にはあまり浸透しなかった。ただ、越後出雲崎いずもざきの禅僧良寛りょうかん(1758-1831)は、万葉調の童心あふれた独特の歌風をつくりあげた。

演劇

演劇では、18世紀前半に、近松門左衛門の指導を受けた竹田出雲(2世、1691-1756)が、『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』などのすぐれた浄瑠璃の作品を残し、そのあとを継いだ近松半二(1725-83)は『本朝廿四孝ほんちょうにじゅうしこう』をつくった。その後、人形浄瑠璃は歌舞伎に圧倒され、浄瑠璃は人形操りから離れて、一中節・常磐津節・新内節・清元節などの座敷で唄われる唄浄瑠璃の方面に移った。人形浄瑠璃の衰退とは逆に、歌舞伎は18世紀なかごろに花道や回り舞台などの劇場の舞台装置も工夫され、その演劇的要素が高められて人気を集め、歌舞伎が上演された中村座・市村座・森田座は江戸三座として栄えた。化政期には、江戸の町人社会に素材を求めた鶴屋南北つるやなんぼく(四世、1755-1829)は、『東海道四谷怪談』をつくり、ついで河竹黙阿弥かわたけもくあみ(1816-93)は、『白浪五人男』などの歌舞伎狂言の名作を書いた。またこのころ、各地の自然や民俗、そして地理にも関心がもたれ、山東京伝や曲亭馬琴ら江戸の文化人と交流があった越後の鈴木牧之すずきぼくし(1770-1842)は、『北越雪譜ほくえつせっぷ』を書いて雪国の自然や生活を紹介し、東北地方を40年にわたって旅した三河出身の国学者菅江真澄すがえますみ(1754-1829)は、『菅江真澄遊覧記』のなかで見聞した各地の民俗や地理を紹介した。