南北朝の動乱 公武権力の抗争図
公武権力の抗争図 ©世界の歴史まっぷ

南北朝の動乱

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南北朝の動乱

後醍醐天皇が吉野に移ってから江戸時代の初めころまでは、北朝の正統性に疑間をもったり、南朝の存在をことさらに強調する学者は皆無であったが、儒学の名分論の進展から、両者の正間を問題にする動きが現れた。明治になると学問的な立場から南北朝並立論が現れたが、南朝正統論者が国家主義者と結んでこれを問題視し、国民思想涵養上、南朝の正統を教育すべきであるとした。おりからおこった大逆事件とも関連して政治問題に発展し、政府は翌年勅裁によって南朝正統を決定、教科書は改訂され、足利尊氏は逆賊と定められた。以後、皇国史観の伸展とともに南朝正統説は不動になり、太平洋戦争を迎える。

南北朝の動乱

醍醐天皇は1336(建武3)年末、京都を脱出して吉野にこもり、 自らが正統の天皇位にあることを主張した。京都の朝廷(北朝)に対して吉野にも朝廷(南朝)が出現したのであった。以後、約60年にわたり、両朝は抗争を続ける。この期間をとくに南北朝時代と呼ぶ。

ただし、南朝が真の意味で北朝と戦えたのは、 ごく短期間にすぎない。1338(延元3、暦応元)年、奥州から再び上京してきた北畠顕家きたばたけあきいえが京都への進軍を阻止されて戦死し、ついで新田義貞が越前で勢力圏づくりに失敗して戦死すると、南朝は主要な戦力を失ってしまう。後醍醐天皇は失意のうちに吉野で死去し、以後は北畠親房きたばたけちかふさ(1293~ 1354)の主導のもとに、東北・関東・九州などに残った数少ない勢力圏を拠点として抵抗を続けた。

南朝はほとんど組織的な戦力をもてなかったが、それでも北朝が南朝を一挙に滅ぼせなかったのはなぜだろうか。南朝が吉野や賀名生あのうなどの要害の地を本拠にしたこと、伊勢・紀伊の水軍勢力を通じて東国・西国と海上連絡を保ち続けたこと、三種の神器に象徴される南朝正統の理念の存在、などが理由としてあげられるが、根本的な要因はむしろ北朝の側にあった。北朝を支える幕府は、深刻な内部分裂によって揺れていたのである。

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南北朝正閏論

後醍醐天皇が吉野に移ってから江戸時代の初めころまでは、北朝の正統性に疑間をもったり、南朝の存在をことさらに強調する学者は皆無であった。ところが儒学の名分論の進展から、両者の正間を問題にする動きが現れた。

当時の常識をくつがえして南朝正統を主張したのは水戸の『大日本史』で、神器をもつ者が即ち正当な皇位継承者、という考え方を提示した。これを受け継いだのが頼山陽らいさんようの『日本外史』で、 この書は明治の元勲げんくんたちに多大な影響を与えたといわれる。明治になると学問的な立場から南北朝並立論が現れ、1910(明治43)年制定の『尋常日本歴史』も喜田貞吉きださだきち(1871~1939)らによってこの立場で叙述されている。ところが南朝正統論者が国家主義者と結んでこれを問題視し、国民思想涵養かんよう上、南朝の正統を教育すべきであるとした。おりからおこった大逆事件とも関連して、ことは政治問題に発展し、政府は翌年勅裁ちょくさいによって南朝正統を決定、教科書は改訂され、足利尊氏は逆賊と定められた。以後、皇国史観の伸展とともに南朝正統説は不動になり、太平洋戦争を迎える。

1338(暦応元)年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任じられ、幕府政治を再興した。このとき、幕府内では明確に権限が分割され、尊氏と弟足利直義の二頭政治が展開された。将軍尊氏は全国の武士との間に結んだ主従制を統括し、中央では侍所、地方では守護を通じて、武家の棟梁として君臨した。軍事活動を奉公として要求し、御恩として恩賞を供与する権限を握る尊氏は、「軍事の長」であった。一方、直義は統治者としての権限を掌握した。鎌倉幕府の機構であった評定・引付を再び設置し、安堵方あんどかた禅律方ぜんりつかたなどを新設し、これらの行政・司法の機構を通じて政治を行った。直義は「政事の長」であった。

尊氏と直義は、互いに補い合って幕府政治を推進していった。けれども一つの権力体のなかで、権限が二分割された状態を持続させていくことは困難であった。彼らはたびたび軍事を優先するか、政事を優先するか、という難問を課せられて衝突し、兄弟はしだいに亀裂が生じた。さらに、尊氏と直義の対立を決定的にしたのは、尊氏の執事である高師直こうのもろなお(?〜1351)の存在であった。師直は畿内の新興武士層を吸収して強力な将軍の親衛軍を組織し、北畠顕家楠木正成の子の楠木正行くすのきまさつら(?〜1348)を滅ぼしている。伝統的な権威や荘園制の枠組みを否定する人物で、秩序を重んじ、伝統的権威との協調を模索する直義とは正反対の立場にあつた。大まかに整理すると、新興の武士層や武断的な武士たちは師直を、由緒を有し保守的な武士層や文治を重んじる武士たちは直義を支持したといわれている。

武士の天皇観

室町幕府草創のころ、すでに武士たちはきわめてさめた天皇観をもっていた。光厳上皇の家来に下馬を命じられた土岐頼遠ときよりとお(?〜1342)は、「下馬しろとは何事だ。院というか、犬というか。犬なら射落としてやろう」と上皇の車に射懸けた。高師直は「王とか院とか、面倒でしかたない。もし必要なら木や金で作って、生きてる上皇はどこぞへ流し捨ててしまえ」と放言した。佐々木高氏(道誉どうよ 1306〜73)は光厳上皇の兄弟の亮性法親王りょうしょうほうしんのうの屋敷に焼き討ちをかけ、重宝を奪いとった。この時期に流行した華美で人目を驚かす風俗を婆娑羅ばさらといったことから、伝統的権威を無視して傍若無人にふるまう彼らを婆娑羅大名といったが、彼らはけっして異端の存在ではなく、重臣として幕府の意思決定に深く関与している。当時の幕府と朝廷との関係を考えるうえでも、興味深い挿話である。

急進的な高師直こうのもろなおと漸進的な足利直義の対立は、尊氏と直義の対立でもあり、両者の対立は1350(観応元)年から観応の擾乱かんのうのじょうらんといわれる全国的な争乱に発展した。1351(観応2)年に師直が殺害され、52(観応3)年に直義が敗れて死去したのちも抗争は続き、尊氏と嫡子足利義詮あしかがよしあきら(1330〜67)の一派、直義の養子足利直冬あしかがただふゆ(実は尊氏の庶子 生没年不詳)の一派、南朝勢力の三者が離合集散を繰り返した。この内紛の間に尊氏も直義も、方便ではあっても一時的に南朝に降伏した。南朝の軍は幕府に反抗する勢力に助けられ、4度にわたって京都への進攻を実現した。

北朝と南朝、尊氏党と直義党の争いが長期にわたった背景には、武士社会の変貌があった。この時期、分割相続から単独相続へ、という動きが定着し、本家と分家のつながりを前提とする惣領制は崩壊した。武士は血縁ではなく地縁を重んじて結びつくようになり、各地に新しい武士集団が生まれつつあった。これらの武士集団は各地方・各地域の主導権をかけて互いに争い、一方が北朝に属せば一方は南朝に、一方が尊氏党ならば一方は直義党に属して戦った。また本家と、もはや本家の指令を受けつけないかつての分家とが争う、という事態もしばしばおこった。このために動乱は全国に拡大し、長期化の様相を呈したのである。同時に、武士の支配に対抗する農村の共同体の形成も進んでいった。

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