永保寺開山堂 南北朝文化
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南北朝文化

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南北朝文化

南北朝時代の全国的に激しい動乱が続くなか、時代の転換期に高まった緊張感を背景として、歴史書や軍記物語などがつくられた。

太平記・増鏡・神皇正統記・梅松論・曽我物語・新続古今和歌集・李花集・職原抄・建武年中行事・河海抄・連歌・菟玖波集・応安新式・能楽・闘茶・バサラ(婆娑羅)・天龍寺

南北朝文化

南北朝時代には、全国的に激しい動乱が続くなか、時代の転換期に高まった緊張感を背景として、歴史書や軍記物語などがつくられた。

歴史書

歴史書には、源平の争乱から建武までの約150年間の歴史を公家の立場から記した『増鏡ますかがみ』、伊勢神道の理論を背景に神代から後村上天皇即位までの歴史を記し、南朝の立場から皇位継承の道理を説いた北畠親房きたばたけちかふさの『神皇正統記じんのうしょうとうき』、または持明院・大覚寺両統の分裂から足利氏の政権獲得までの過程を武家の立場から記した『梅松論ばいしょうろん』などがある。

軍事物語

軍記物語では、南北朝の動乱の全体像を描こうとした『太平記たいへいき』がつくられた。これは、後醍醐天皇の討幕計画から鎌倉幕府の減亡、建武の新政から南北朝の対立を経て、管領細川頼之ほそかわよりゆき(1329~92)が幼少の足利義満を補佐するために讃岐から上京するまでの約50年間を描いた壮大な物語である。現在知られている『太平記』のかたちができあがったのはほぼ1370年代とみられるが、作者については法勝寺ほっしょうじ恵鎮ちえん上人(円観えんかん1281〜1356)とその事業を引き継いだとみられる小島法師ら、複数の僧侶の関与が考えられている。。『平家物語』が琵琶法師によって語られたのに対し、『太平記』は講釈というかたちで人々の間に広まり、後世まで大きな影響を与えた。このほか、源義経の生涯を描いた『義経記ぎけいき』や、鎌倉時代初期の東国武士社会に題材をとった『曽我物語そがものがたり』などがつくられている。

江戸時代にも「太平記読み」と呼ばれた解釈師によって語られ、演芸の一つである講談の原型となった。

『太平記』と『難太平記』

難太平記なんたいへいき』は15世紀初頭に今川貞世(了俊)が今川家の歴史を子孫にに伝えるために著したもので、源義家が「7代後の子孫に生まれかわって天下をとる」と語った話や、足利尊氏の祖父足利家時(生年不詳)が「3代のうちに天下をとらせよ」とかみに祈って切腹した話など、足利氏の歴史の深奥に迫る興味深い逸話がみえ、『太平記』の成立についても『難太平記』は貴重な話を載せている。昔、法勝寺の恵鎮上人が足利直義のもとに『大平記』を持参し、それを玄恵げんえ法印が読んで聞かせたところ、あまりに誤りが多いので、聞いていた直義が怒ったという話がそれだが、ここから直義の在世中にすでに『太平記』の原型がつくられていたこと、それは後醍醐天皇とも縁の深い恵鎮上人の周辺でつくられたらしいことがわかる。その後、何度か加筆や修正がほどこされ、1370年代ころに現在知られている『太平記』の形がほぼできあがったと考えられている。なお『難太平記』は、本来『大平記』に関する著作ではないが、『太平記』の内容を批判する記事がみえることから、後世、『難太平記』と呼ばれるようになった。

和歌

和歌では、後醍醐天皇の皇子宗良親王むねよししんのうが、内乱のなか各地を転戦した南朝歌人の歌を集めて『新葉和歌集しんようわかしゅう』を編んだほか、同親王には歌集『李花集りかしゅう』もある。しかし15世紀前半に6代将軍足利義教の発意で編まれた『新続古今和歌集しんしょくこきんわかしゅう』が最後の勅撰和歌集となったように、これ以後、和歌は次第に振るわなくなっていった。 なったように、 これ以降、和歌はしだいにふるわなくなっていった。

有職故実

有職故実ゆうそくこじつの分野では、日本の官職制度をまとめた北畠親房きたばたけちかふさの『職原抄しょくげんしょう』、廃れていた朝儀の再興を企図して朝廷の年中行事について解説した後醍醐天皇の『建武年中行事』などがつくられたが、いずれも朝廷政治の本来のあり方を示そうという政治的意図のもとに書かれたものである。このほか古典研究の分野では、『源氏物語』の注釈書である四辻義成よつつじよしなり(1326〜1402)の『河海抄かかいしょう』が編まれた。

連歌

またこの時代には、「二条河原落書にじょうがわらのらくしょ」に「此比このごろ都ニハヤル物」として風刺されているように、公家・武家を問わず広く連歌れんがが流行した。連歌は、和歌を上の句と下の句にわけ、蓮衆れんじゅと呼ばれる一座の人々がつぎつぎに前句まえく付句つけくしていき、五十句・百句にまとめた共同作品である。もともとは和歌の会の余興として宮廷で楽しまれたものであったが、鎌倉時代のなかごろ、桜の花の下で興行され、見物者が飛び入りで参加できる花下連歌はなのもとれんがが流行して庶民の間にも急速に広がり、そのなかから善阿ぜんな(生没年不詳)・救済きゅうぜい(1280?〜1376?)らの優れた連歌師も輩出した。本来は文学というよりは、即興の機知と意外性を楽しむ一種の芸能であったが、南北朝時代に出た二条良基にじょうよしもと(1320〜88)は『菟玖波集つくばしゅう』を撰し、連歌の規則書として『応安新式おうあんしんしき』を制定するなどして連歌の芸術性を追求し、この『菟玖波集』が勅撰集に準ぜられてからは和歌と対等の地位を築いた。

猿楽・闘茶

猿楽・田楽のなかから発達した能楽も愛好された。12世紀には栄西が伝えた喫茶の風習も定着し、茶寄合ちゃよりあいが各地で行われたほか、茶の異同を飲みわけてかけ物を争う闘茶とうちゃも流行した。

バサラ

このころの文化の特色は、過度のぜいたく・派手好みを意味する「バサラ(婆娑羅)」という言葉によく表れている。奇抜な衣装や道具を身にまとい、唐物をふんだんに使った室内装飾で人目を驚かすバサラの流行は、この時代に新たな社会的勢力として進出してきた畿内の新興武士層を担い手としていた。連歌や田楽・茶寄合・生花など、あらゆる流行を先取りし、バサラ大名と呼ばれた佐々木高氏ささきたかうじ(導誉)はその代表的な人物であり、やがてその洗練と調和のなかから室町文化が成熟していくとこになる。

仏教

仏教では、鎌倉時代に武家社会の上層に広まった臨済宗に夢窓疎石むそうそせき(1275〜1351)が出て、将軍足利尊氏のあつい帰依を受けた。疎石は、尊氏・直義兄弟に勧めて元弘の変以来の戦死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺利生塔りしょうとうと呼ばれる一寺一塔を建立させ、また後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助で天竜寺を造営し、自らその開山となった。このように足利尊氏の夢窓疎石に対する信頼には絶大なものがあり、彼らの交流をきっかけとして、臨済宗の、とりわけ夢窓疎石の流派が、室町幕府の保護のもとで大いに栄えることになったのである。疎石は漢詩文に巧みであったほか、作庭の分野でも西芳寺庭園天龍寺庭園などの名園を残し、禅宗文化の興隆にも大きく貢献した。水墨画の世界でも黙庵もくあん(生没年不詳)や可翁かおう(生没年不詳)らが登場し、早くもその活動を開始している。

こうして南北朝時代には、のちの北山文化や東山文化へとつながる室町文化の基礎が形作られたのである。

参考

室町文化一覧表