宗像大社中津宮 古墳時代の人々の生活
宗像大社中津宮(©「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会)

古墳時代の人々の生活

古墳時代は、支配者である豪族(首長)と被支配者である民衆とがはっきり分離し、その生活のあり方もまた大きく異なるようになった時期といえる。この時代になると豪族は民衆の住む一般の集落から離れた場所に、周りに濠や柵列を巡らした居館を営むようになった。

古墳時代の人々の生活

世界史対照略年表(前400〜600)
世界史対照略年表(前400〜600)©世界の歴史まっぷ

古墳時代は、支配者である豪族(首長)と被支配者である民衆とがはっきり分離し、その生活のあり方もまた大きく異なるようになった時期といえる。この時代になると豪族は民衆の住む一般の集落から離れた場所に、周りに濠や柵列を巡らした居館を営むようになった。そこは、首長がマツリゴト、すなわち政治 を行う場であり、また首長一族の生活の場であり、さらに余剰生産物を蓄える倉庫群が営まれる場所でもあった。

当時は、邪馬台国依頼の政治と神祀が未分化の、祭政一致の状況がまだ存続している段階であったらしい。4世期末の大型前方後円墳である奈良県島の山古墳では、後円部にあった竪穴式石室と

これに対し民衆が住む一般の集落には、環壕などはみられず、複数の竪穴住居ないし平地住居と1、2棟の高床倉庫などからなる基本単位がいくつか集まって構成されていたらしい。群馬県群馬郡子持村(現・渋川市)の黒井峯遺跡では、6世紀中葉の榛名山二ッ岳の噴火で噴出した軽石層の下から当時の村が検出されている。そこでは、芝垣に囲まれた数棟の住居と考えられる平地建物と2棟前後の高床倉庫と簡単な倉庫や家畜小屋などからなる屋敷地がいくつか確認されている。ここでは、それぞれ1棟の大規模な竪穴住居がこの垣根の外側に接して営まれており、竪穴住居の位置づけに問題を残すが、当時の集落を構成する基本単位で、それが人々の日常生活の基礎になっていたものであろう。

通常の集落遺跡では、旧地表は失われている場合がほとんどで、黒井峯遺跡のような平地住居は検出されないが、当時の民衆の住居は竪穴住居か平地住居であったらしい。それ以外に掘立柱の建物が支配者層のマツリゴトにかかわる建物や住居として営まれたらしい。竪穴住居では、5世紀になると朝鮮半島の影響を受けてつくりつけのカマドを伴うようになる。

古墳時代の前期から中期の始めころまでは、弥生土器の系譜を引く土師器はじきが用いられたが、中期前半からは朝鮮半島の陶質土器の生産技術の影響を受けた硬質で灰色を呈する須恵器すえきの生産も始まり、土師器とともに日常用の土器として用いられた。

当時の人々の衣服については、人物埴輪からそのあり方をうかがうことができる。男性は衣と乗馬ズボンのような袴、女性は衣とスカート風のという上下にわかれたものが一般的であったらしい。

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古墳時代の人々にとっても、弥生時代と同じように農耕にかかわる祭祀は最も重要視されたものと考えられる。なかでも、豊作を祈る祈年としごいの祭や収穫を神に感謝する秋の新嘗にいなめの祭は、重要なものであったに相違ない。当時の人々が神をどのようなものとして意識していたかは難しい問題であるが、奈良県の三輪山に代表されるような円錐形の整った形の山(神奈備むなびと呼ばれた)、高い樹木、巨大な岩(磐座いわくら)、絶海の孤島、川の淵などを神の宿るところ、ないし神が降臨するところと考え、それらを祭祀の対象としていたことは、そうした場所から祭祀に用いられた遺物が出土するところからも疑いない。また、井戸や水辺でも水にかかわる祭りが盛んに行われてたことが知られている。そうした神祭り場のなかには、現在の神社につながるものもみられる。三輪山を祭る大神神社は三輪山を神体とし、現在も拝殿のみで本殿はない。玄界灘の孤島の沖ノ島には現在も宗像大社の沖津宮があり、4世紀後半から9世紀にわたる各時期の豪華な奉献品や大量の祭祀遺物が出土している。日本列島と朝鮮半島とを結ぶ海上交通の安全を祈る国家的な祭祀が行われたと考えられている。

宗像大社中津宮 古墳時代の人々の生活
宗像大社中津宮(©「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会)

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群保存活用協議会

こうした古墳時代の祭祀遺跡から出土する祭祀遺物としては、弥生時代の銅鐸どうたく・銅剣・銅矛・銅戈どうかなどの青銅製祭器にかわって、銅鏡や鉄製の武器や農工具、さらに玉類が重要な地位を占めるようになった。5世紀以降はそれらの品々を石などで大量に作った模造品を神に捧げるようになった。5世紀の祭祀遺跡から出土する石製模造品のなかでも特に多いのは鏡・剣・勾玉を模したものである。また、木製の祭具も数多く用いられた。

このほか、けがれをはらうみそぎ、わざわいから逃れるためのはらえ、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占ふとまにの法、裁判に際し熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する盟神探湯くかたちなどの呪術的な風習が行われたことが、『古事記』『日本書紀』の記載などからもうかがわれる。