ヤマト政権と政治制度
ヤマト政権は、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度と呼ばれる支配体制をつくりあげていった。氏とはヤマト政権の生み出した政治・社会組織であり、支配者層に特有の集団である。
ヤマト政権と政治制度
ヤマト政権の勢力範囲は、倭王武(雄略天皇)が中国の宋の皇帝に奉った上表文や、千葉県稲荷台1号墳出土鉄剣、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣、熊本県江田船山古墳出土鉄刀に刻まれた銘文などから、5世紀なかごろから後半にかけて、東国から九州にまで及んでいったことがわかる。
とくに、稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土鉄刀にみえる「獲加多支歯(ワカタケル)大王」は、『宋書』倭国伝の倭王武(『古事記』『日本書紀』の雄略天皇)のことであり、5世紀後半にヤマト政権の支配圏が広がっていつたことがうかがえる。
大和政権の中枢は、大王を中心として、大和・河内やその周辺を基盤とする豪族の連合体によって占められていた。大王家は大和盆地南東部の三輪山山麓を地盤として勢力を伸ばし、5世紀に入ると、しだいに大王家内の血縁による大王位継承を確立するようになった。
ヤマト政権は、5世紀末から6世紀にかけて、氏姓制度と呼ばれる支配体制をつくりあげていった。豪族は、氏に編成された。氏とはヤマト政権の生み出した政治・社会組織であり、支配者層に特有の集団である。氏は多くの家によって構成され、その首長的地位にある氏上が中心となり、それに直系・傍系の血縁者や、非血縁者の家などが所属していた。氏上は氏の代表として氏人を率い、ヤマト政権の構成員となり、それぞれの氏に特有の職掌や地位を通じて、政治に参与した。大王は、それぞれの氏の政治的地位や性格に応じて、姓かばねを授け、氏を統制した。
豪族は、田荘と呼ばれる私有地や、部曲と呼ばれる私有民を各地に領有して、経済的・軍事的基盤とした。部曲は、それを領有する豪族の名を付して、蘇我部・大伴部などと呼ばれた。氏やその内部の家は、ヤツコ(奴婢)と呼ばれる隷属民も所有し、労役に使用した。
氏の名は、葛城・平群・巨勢・蘇我など本拠地の地名を冠したものと、大伴・物部・土師・中臣・膳など職掌に基づくもの(伴造的豪族)とがあり、後者の方が古くから成立したといわれる。
姓の起源は、人名に付した彦・根子・君・別・宿禰などの尊称で、政治制度としての姓は、5世紀末から6世紀にかけて、ヤマト政権から賜ることによって成立した。姓は必ずしも大王家との血縁や出自を基準にして授けられたわけではなく、賜姓時の政治的地位や職掌に基づくものと考えられる。
姓には、臣・連・君・直・造・首・史などがある。臣は葛城・蘇我・吉備・出雲などヤマト政権を構成する有力豪族や地方の有力豪族に、連は大伴・物部・中臣など特定の職掌・地位をもってヤマト政権を支える有力伴造豪族に、君は筑紫・毛野など地方の有力豪族に、直は凡河内などの国造に任じられた地方豪族に、造は衣縫・穴穂部など伴造の首長に、首は海部・西文・志紀など伴造豪族、渡来系豪族、県主に任じられた地方豪族に、それぞれ授けられた。
これらのうち、臣・連の二つの姓を賜った豪族が、ヤマト政権の中枢を形成した。臣姓豪族のうち、葛城・平群・巨勢・蘇我氏は大臣おおきみに任じられたという伝承をもち、連姓豪族のうち、大伴・物部は大連に任じられたと伝えられる ❶ 。
❶ 大臣に任じられたという伝承をもつ葛城・平群・巨勢・蘇我氏のうち、蘇我氏以外は史実ではないとする説が有力である。また、大伴・物部氏が任じられたと伝えられる大連も、氏族内における敬称と考える説もある。
ヤマト政権における政務や祭祀などのさまざまな職務は、伴造と呼ばれる豪族や、その配下にあった伴と呼ばれる氏人の集団によって分掌された。5世紀末から6世紀にかけて、中国南朝の高い技術や知識を導入していた百済から渡来する人々が急増したが、ヤマト政権は、彼らを百済の部司制を模した品部に編成し、伴造の統率下でさまざまな物資や専門的労働力を貢上させた。品部は、その職掌に応じて、韓鍛冶部・錦織部・陶作部・玉造部・忌部・史部などと呼ばれた。
同じころ、ヤマト政権は地方に対する支配を強め、地方豪族の領域内の農民の一部を、名代・子代の部という直轄民とした。これは長谷部・春日部・額田部・刑部など、設置されたときの王族や宮の名を負っていた。また、屯倉と呼ばれる大王家の直轄領を、畿内、ついで畿外各地に設定した。屯倉の経営は、中央から監督者が派遣され、屯倉周辺の農民を田部として徴発し、その徭役労働によって耕作が行われるというものであった。
一方、初期のヤマト政権では、ヤマト政権に服属した地方の地域共同体のうち、重要視されたものが県とされ、その首長が県主と称されていた。6世紀から7世紀初頭にかけて、それにかわる地方支配体制として順次設置されたのが、国造制である。それまで地方を統治していた各地域の優勢な豪族が国造に任命されたが、国造の数は最終的には百数十に達したとみられる。国造は、みずからの統治権を認められるかわりに、ヤマト政権に対して、子弟(舎人・靭負として)・子女(采女として)の出仕、地方特産物や馬・兵士の貢上などを行った。また、屯倉や部民を管理する伴造職を兼務したり、国造軍を統率してヤマト政権の遠征に参加したりした。
三ツ寺1遺跡の豪族居館
各地で発掘されている古墳時代の豪族居館のなかでも最もみごとな遺構が検出されているのが5世紀後半から6世紀初めの群馬県高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡である。この居館は周りに幅30〜40mの大規模な周濠をめぐらした一辺約90mの方形を呈し、濠に面した斜面には古墳の葺石ふきいしと同じように石が葺かれている。濠の内側が二重の柵によって囲まれ、その内部はまた柵によって南と北のブロックにわけられている。南のブロックの西寄りはさらに柵によって囲まれ、その内部には東西14m、南北13.6mの大きな建物があり、館の中心的な建物と考えられる。この建物の西南には八角形の井戸屋型をもつ井戸があり、西北には導水高を伴う石敷きのプール状の施設がある。この施設には西側の濠を渡る導水橋によって館の外から水を引くようになっており、神祭りに用いる石製模造品が出土していることから祭祀の場であったと考えられている。
北のプロックは竪穴住居などが検出されているが、まだ一部が調査されただけで、大型建物や倉庫の有無はわかっていない。ただ、南のブロックが水にかかわる祭祀をも含む神祭りの場であり、西のブロックが豪族の生活空間であることはほぼ間違いなかろう。この遺跡の西北約lkmのところには、5世紀後半から6世紀初頭にかけて相ついで営まれた二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳という墳丘長100mを超える3基の前方後円墳を中心とする保渡田古墳群があり、三ツ寺1遺跡の居館を構えた豪族の古墳と考えられている。