国家体制の整備
第1次伊藤内閣 ©世界の歴史まっぷ

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国家体制の整備

華族制度の整備・内閣制度の確立・皇室財産の設定・地方自治制度・諸法典の編纂

国家体制の整備

政府は急進的な自由民権運動を取り締まるとともに、自らの主導権で立憲政治の実現をはかった。1882(明治15)〜83(明治16)年、ヨーロッパに渡った伊藤博文らは、ドイツのグナイスト(Gneist, 1816〜95)やオ一ストリアのシュタイン(Stein, 1815〜90)ら一流の公法学者・政治学者たちから、君権主義の原則に立つプロイセン憲法(プロシア憲法)やドイツ諸邦の憲法をはじめ、イギリス・ベルギーなどヨーロッパの立憲国家における政治・法律諸制度とその運営の実際を学んだ。そして帰国するや、宮中に制度取調局(のち内閣法制局)をおき、伊藤自身は参議のまま局長となり、宮内卿(のち宮内大臣)を兼任して立憲政治の前提となる政治改革に着手した。

華族制度の整備

1884(明治17)年、華族令が公布され、華族は公·侯·伯·子・男の5爵にわけられ、これまでの旧大名、公家らに加えて、明治維新以後、国家に功労のあった人々を新しく華族に列した。これにより、政府の首脳はほとんど爵位を授けられた。さらに1887(明治20)年には、民権派の指導者や旧幕臣の有力者にも爵位が授与された。これは、国会が開かれた場合の上院(貴族院)の選出母体とするためのものであり、そこには立憲政治の実現に向けての国内の対立をやわらげようとする政府の意図がうかがえる。また、伊藤はこれと並行して宮中改革を進め、日本の伝統的な宮廷の制度や慣行を西洋式に改め、ヨーロッパ風の立憲君主制の導入に備えた。

内閣制度の確立

第1次伊藤内閣
第1次伊藤内閣カード ©世界の歴史まっぷ

第1次伊藤内閣

官職氏名出身年齢爵位
総理伊藤博文長州藩45
外務井上馨長州藩51
内務山県有朋長州藩48
大蔵松方正義薩摩藩51
陸軍大山巌薩摩藩44
海軍西郷従道薩摩藩43
司法山田顕義長州藩42
文部森有礼薩摩藩39
農商務谷干城土佐藩49
逓信榎本武揚幕臣50

1885(明治18)年12月、政府機構の改革が行われ、太政官制が廃止となり、それにかわって近代的な内閣制度が創設された。すなわち、これまで皇族及び公家・大名出身者をもってあてていた太政大臣・左大臣・右大臣や、「藩閥」政治家の有力者が就任していた参議の職を廃し、各省の行政長官を国務大臣として、新しく内閣総理大臣をおき、その統轄のもとに各国務大臣をもって内閣を構成し、政治運営の中心とした。これは国会開設に備えて行政府の強化・能率化·簡素化をはかるとともに、責任体制を確立するのが目的で、これによって主に薩長出身の藩閥政治家たちが名実ともに実力者として、政治の中枢部を占めることになった。また内閣制度の制定に伴い、天皇の側近にあって相談相手(常侍輔弼ほひつ)の任にあたる内大臣(初代三条実美)をおいて、御璽ぎょじ·国璽こくじの保管など宮中の所務を管轄させ、また宮内省を内閣の外においた。こうして、府中と宮中の別を明らかにし、宮中を政治から切り離すようにした。なお、内閣制度の制定とともに、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任して内閣を組織した(第1次伊藤内閣)。上の表のごとく、その10名の閣僚中4名が旧薩摩藩4名が旧長州藩出身者で閣僚の平均年齢は46歳余り(数え年)と壮年の実力派内閣であったが、反対派からは旧薩長出身者中心の藩閥内閣であるとして攻撃された。閣僚に占める旧薩長出身者の比率は、その後しだいに減少したが、大正の初めまで、公家出身の西園寺公望さいおんじきんもち、旧肥前藩出身の大隈重信を除けば、総理大臣はいずれも旧薩長出身者で占められた。

皇室財産の設定

政府は皇室が議会の制約を受けないようにするため、1885(明治18)年から1890(明治23)年までに、約365万haに及ぶ山林·原野やばく大な有価証券を皇室財産とした。

地方自治制度

地方制度の面においても大きな改正が加えられた。政府は議会開設に先立ち、内務大臣山県有朋やまがたありともを中心に、ドイツ人顧問モッセの助言を受けてドイツに範をとる地方自治制を取り入れ、地方自治の確立につとめ、1888(明治21)年に市制・町村制を公布し、翌年施行した。ついで1890(明治23)年、府県制・郡制を公布した。三新法にかわるこれら一連の新法令の公布によって、強い官僚統制のもとに地方有力者を組み込むかたちをとって、官治主義的な地方自治制度が確立された 。地方自治制を帝国議会開設に先立って定めたねらいの一つは、議会開設後、当然予想される政府と政党との衝突や政争の激化を地方政局へ及ぼさないためのものであった。そのため、県会議員の選挙ではこれまでの住民による直接選挙の方式を改めて、郡会、市会などからの間接選挙によることとし、郡会議員の選挙では一部に大地主の互選の制度を定め、また市会議員・町村会議員の選挙は、直接国税2円以上を納める有権者の直接選挙で選ばれた。その選挙では、有産者に有利な等級選挙法を採用するなどの配慮をし、”財産と教育ある名望家”が議員に選ばれるような制度をつくって、地方自治の基礎としたのである。なお、郡制・郡会や市町村会議員の等級選挙制度は、その後批判が高まり、1920年代に廃止された。

府県知事や郡長は、これまで通り政府によって任命された。

諸法典の編纂

近代的諸法典の編纂は、条約改正のための必要もあって、明治初期から着手された。フランスから招いた法学者ボアソナード( Boissonade, 1825〜1910)らの助言のもとに、ヨーロッパ流の法体系を取り入れ、まず1880(明治13)年、これまでの新律綱領・改定律例にかわって、刑法・治罪法を制定・公布した(1882年より施行) 。ついで1890(明治23)年には民法の一部が公布され、1893(明治26)年から実施することになった。しかし、その内容がフランス風で自由主義的であったため、日本古来の伝統たる家族制度を破壊するものとして、法曹界・政界の保守的な人々の間から強い反対がおこり、「民法出デテ、忠孝亡ブ」と極言する者まで現れ、いわゆる民法典論争が白熱化した。このために民法実施は延期され、改めて断行派の梅謙次郎うめけんじろう(1860〜1910)や反対派の穂積陳重ほづみのぶしげ(1856〜1926)らが、原案を修正して新たに民法起草にとりかかり、1896(明治29)〜98(明治31)年に修正民法(明治民法)が公布された 。これにより西洋流の一夫一婦制度が確立された人が、一方では伝統的な家の制度を存続させ、戸主と長男の権限が大きく、夫権・親権の強い儒教的道徳観を反映した内容が盛り込まれていた。商法も1890(明治23)年に公布されたが、民法典論争の余波を受けて実施延期となり、1899(明治32)年になって修正のうえ公布された。そのほか、民事訴訟法・刑事訴訟法もつくられ、憲法と合わせて六法が整備されることになったのである。

新律綱領は1870(明治3)年、明・清律を参考にして暴力刑を廃した刑法で、改定律例は1873(明治6)年にナポレオン法典を参考にして残虐刑をゆるめたものであるが、江戸時代以来の法体系の性格を強く残していた。治罪法は、刑事訴訟法にあたるものでもある。また、刑法はのちにドイツ流の要素をも取り入れた新刑法に改正された。

修正民法を明治民法というが、満30歳以下の男性、満25歳以下の女性は父母の同意なしには結婚できないとか、妻の法的無能力規定などの条項があった。しかし、一方で女性の戸主も認められた。

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