国風文化 貴族の生活
寝殿造(東三条殿復元模型)国立歴史民俗博物館

5. 貴族の生活

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貴族の生活

9世紀後半から10世紀ころになると、貴族は寝殿造の邸宅に住むようになる。衣服は唐風の衣服をもとに、日本風に大胆に改変した、男性の正装・束帯、女性の正装・女房装束(十二単)が用いられ、食事は仏教の影響で牛馬などの獣の肉は避けられ、副食には魚・鳥などの肉や野菜が用いられた。

貴族の生活

住宅

9世紀後半から10世紀ころになると、貴族は寝殿造しんでんづくりという形式の邸宅に住むようになる。これは、公卿であれば多くの場合1町(約120m四方)の敷地に、寝殿を中心としてその北・東・西などにたい対屋たいのや)を配し、これらを渡殿わたどのろうで連結したもので、寝殿の前には池をもつ庭園が広がり、東西の対から池に向かって廊が延び、その先に釣殿つりどのなどが設けられていた。これらの建物は白木造しらきづくり檜皮葺ひわだぶきで、一部を除けば壁をもたず、広い空間を屏風や帷帳いちょう適宜てきぎ仕切って使用したらしく、その点では壁塗りで瓦葺かわらぶきの中国風建築とは大きく異なっていたが、一方で建物を廊などにより連結する方式には中国住宅の影響もみられる。

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寝殿造(東三条殿復元模型)国立歴史民俗博物館

衣服

衣服では、男性の正装として束帯そくたい、これを簡略化した衣冠いかん、女性の正装には女房装束十二単じゅうにひとえ)が用いられた。これらは唐風の衣服をもとにしながら、これを大胆に改変し、日本風に改めたものだった。また略装として、男性では直衣のうし狩衣かりぎぬ、女性では小袿こうちぎなどが用いられた。

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公卿冬束帯 日本服飾史

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公卿夏の冠直衣 日本服飾史

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殿上人冬の衣冠 日本服飾史
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狩衣姿 日本服飾史

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大鎧をつけた武将 日本服飾史

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民衆婦人姿 日本服飾史
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公家女房五衣小袿 日本服飾史

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民衆直垂姿 日本服飾史

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公家女房 裙帯比礼の物具装束日本服飾史

食生活

食生活の面では、米を蒸した強飯こわいいや炊いた姫飯ひめいいを主食としていた。また、仏教の影響で牛馬などの獣の肉は避けられ、副食には魚・鳥などの肉や野菜が用いられた。食事は日に2回が原則だったが、さまざまな行事に伴う宴席も多かった。

貴族の一生

貴族の一生を略述すると、ほとんどの場合、母の実家で母方の祖父母の後見によって養育され、10〜15歳になると男子は元服げんぷく、女子は裳着もぎと呼ばれる成人式をあげる。その後、10代半ばから20代前半にかけて結婚するが、結婚した男女は妻の両親と同居するか、新居をかまえて住むのが一般的であった。

邸宅は、父から娘へと伝領されることが多かった。また浄土教の影響もあり、世俗社会での先行きがみえたり、晩年の境地に達したりすると、出家する者が多かった。日常生活のなかでは、中国古来の陰陽五行説に基づく陰陽道などの俗信に左右されて日や方角の吉凶に敏感になったり、穢れを極端に避ける傾向が強かった。そこで悪夢などの怪異かいいがあった場合には物忌ものいみと称して自宅に引きこもったり、外出に際しては悪いとされた方角を避けて自邸から一旦別の場所に移る方違かたたがえを行ったりした。

典型的な貴族の生活

10世紀半ば、右大臣に昇った藤原師輔ふじわらのもろすけが子孫のために書き遺した家訓には、貴族の守るべき日課として
「朝起きたならば、属星ぞくせい(その人の一生を支配するとされる星で、北斗七星がそれに配された)の名を7回唱え、つぎに鏡で自分の顔をみて健康状態を調べ、暦(日の吉凶を細かく記した具注暦ぐちゅうれき)をみて日の吉凶を知る。つぎに楊枝で歯の掃除をし、西に向かって手を洗う。さらに仏の名を唱え、日ごろ信仰している神社のことを念じ、昨日のことを具注暦の余白に記す。その後、しるかゆを食べ、頭髪をとき(3日に1度)、手足の爪を切る(丑の日に手の爪、寅の日には足の爪を切る)」
などとあって、神仏への信仰や俗信に彩られた当時の貴族の生活をうかがうことができる。

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