大衆文化の芽ばえ
小学校就学率の変遷 ©世界の歴史まっぷ

大衆文化の芽ばえ

義務教育が普及し、1920(大正9)年には就学率が99%を超え、大正末期にはほとんどの人が文字の読み書きができるようになり文化の大衆化を促した。文部省の教育統制や画一的な教育方針を批判し、生活に根ざした生徒の個性と自主性を尊重する自由教育運動も盛んになり、昭和期に入ってプロレタリア教育運動が発展した。

大衆文化の芽ばえ

以上のような都市化の進行に伴い、大正時代には市民文化が繁栄し、とくに第一次世界大戦後はそれがしだいに大衆化し、いわゆる大衆文化が発達し始めた。

教育

大衆文化の発逹を支えた大きな条件の一つには、教育の普及がある。1918(大正7)年、学校教育制度が全面的に改革され、大学令の制定によって単科大学や公立・私立の大学が認められたのをはじめ、高等学校令も改正され、公・私立の高等学校や中学校の課程を合わせた7年制の高等学校も設立されるようになった。また、中学校高等女学校も増設されるなど、高等・中等教育機関が大幅に拡張された。1900(明治33)年には全国で約2万5000人にすぎなかった専門学校以上の学生·生徒数は、1925(大正14)年には13万人以上に急増した。これにより、知識層が拡大され、都市中間層としてこの時代の文化の中心的な担い手となった。義務教育もいちだんと普及し、1920(大正9)年には就学率が99%を超え、とくに男女の就学率の格差がほとんどなくなったことは注目に値する。こうして大正末期には、ほとんどの人が文字の読み書きができるようになり、文化の大衆化を促した。また、新しい時代の風潮のなかで、文部省の教育統制や画一的な教育方針を批判し、生活に根ざした生徒の個性と自主性を尊重する自由教育運動が盛んに進められ、沢柳政太郎さわやなぎまさたろう(1865〜1927)の成城小学校、羽仁はにもと子(1873〜1957)の自由学園などが、自由教育を実践した。新しい教育運動のなかから、その後、昭和期に入って生活教育・生活綴方つづりかた教育などプロレタリア教育運動が発展した。

小学校就学率の変遷

年次男子女子合計
1900(明治33)90.471.781.5
1905(明治38)97.793.395.6
1910(明治43)98.897.498.1
1915(大正4)98.998.098.5
1920(大正9)99.298.899.0
1925(大正14)99.599.499.4
1930(昭和5)99.599.599.5
文部省編『学制百年史史料編』より
広告
広告