平和と秩序の確立
- 補佐役:会津藩主・保科正之、大老・酒井忠清
- 課題:由井(比)正雪の乱(慶安の変)を機に幕政の転換
- 牢人対策:末期養子の禁止を緩和
- 戦国遺風の廃止:殉死の禁止、大名の人質(証人)の廃止
- 諸法度の整備:諸宗寺院法度、分地制限令
- 結果:幕政の安定にともない、藩政の安定・領内経済の発展がはかられる
平和と秩序の確立
家綱政権
補佐役 | 会津藩主・保科正之、大老・酒井忠清 |
課題 | 由井(比)正雪の乱(慶安の変)を機に幕政の転換 ①牢人対策:末期養子の禁止を緩和 ②戦国遺風の廃止 ・殉死の禁止、大名の人質(証人)の廃止 ③諸法度の整備 ・諸宗寺院法度、分地制限令 |
結果 | 幕政の安定にともない、藩政の安定・領内経済の発展がはかられる |
1651(慶安4)年4月に3代将軍家光が死去し、長子徳川家綱(1641〜80)が11歳で4代将軍職を継いだ。3代将軍家光までの支配のあり方は、内外の戦争に備えた軍事指揮権を発動して、全大名を武力でしたがわせる方式をとってきた。しかも将軍の命令や武家諸法度に反した大名には、断絶や改易・転封の処分を行う、武威による厳しい支配であった。
17世紀なかごろになると、東アジアの中心である中国において半世紀近い動乱を経たのち、清(王朝)(1616〜1912)が明(王朝)を滅亡させて新しい秩序が生まれた。その秩序は東アジア全体に平和をもたらした。また、日本国内では戦国期以来の長かった戦争も、先の島原の乱(1637〜38)を最後に3代将軍までの政治でほとんど解決をみた。
しかしその一方で、大名を処分したために生じた多数の牢人の問題が社会不安を招くようになった。
1651(慶安4)年、家綱の将軍宣下が行われる少し前の7月23日に、兵学者由井(比)正雪(1605?〜51)の乱(慶安の変)と呼ばれる事件がおこった。正雪が槍の名人丸橋忠弥(?〜1651?)らの牢人集団を率いて幕府転覆の陰謀を企てているとの密告がなされたのである。幕府はこの事件を天下謀叛として、自殺した由井正雪の首を安倍川河原にさらし、丸橋忠弥を処刑したほか、多数の牢人を傑や打首にした。
幼い4代将軍家綱を支える大老酒井忠勝(1587〜1662)·老中松平信綱や叔父である後見人の保科正之(1611〜72)らの幕閣は、事件後、牢人の発生を防ぐため、御家断絶の原因になっていた末期養子の禁止を緩和した。それは、今後は当主が死に臨んだとき(末期)、その当主が50歳未満の場合には末期養子を入れて家の存続をはかることを許可したものである。ただし、50歳以上の当主に跡継ぎがなかった場合には、依然、末期迷子は禁止され続けた。
末期養子禁止の緩和
1664(寛文4)年5月、米沢藩30万石の当主上杉綱勝が27歳の若さで病死した。跡継ぎがなかったため、以前であればさしもの名門上杉家も改易されるところであった。急きょ高家である吉良上野介義央(のち赤穂浪士に討たれる)の子景倫を末期養子として家督相続を願った。孫府は30万石の半知15万石の相続を認めたので、上杉家は御家断絶にいたらなかった。
森鴎外『阿部一族』
細川忠利の遺骸を荼毘にふした肥後国の岫雲院という寺院で、忠利の飼っていた2羽の鷹が、突然上空から「さっと落ちて来て、桜の下の井のなかにはいっ」て死んだ情景を鴎外は描き、そのとき「人々の間に『それではお鷹も殉死したのか』と囁く声が聞こえた」と語らせた。「殿様がお隠れになった当日から一昨日までに殉死した家臣が十余人もあって、なかにも一昨日は八人ー時に切腹し、昨日も一人切腹したので家中誰一人殉死の事を思はずにゐるものは無かった」と鴎外は表現している。この作品は主人(大名)の死と家臣の殉死と、それを取り巻く熊本の空気を巧みに伝えている。
成人した徳川家綱は1663(寛文3)年に代がわりの武家諸法度を発布し、併せて殉死の禁止を命じた。「殉死の禁止」の条文の命じる内容は、殉死は不義無益のことであると否定して禁止したうえで、もしも主君のあとを追って切腹する追腹の者があれば、それは主人の戒めが足りなかったもので、その主人=亡主の越度であると命じ、しかもその跡目の息子もこれを止めなかったことは不届きであるとした。
12年前の1651(慶安4)年、将軍家光の死後、元老中堀田正盛(1608〜51)·老中阿部重次(1598〜1651)のほか側近の者たちが殉死した。その前、1636(寛永13)年、仙台藩主の伊達政宗が死去した際、殉死者が15人あり、その殉死した15人のためにさらに殉死した者が5人あった。1641(寛永18)年には、熊本藩の細川忠利(1586〜1641)の死去に際して、19人の家臣の殉死があった。
殉死は将軍と大名の主従間でも、大名と家臣の主従間でも、家臣とその従者との間にもみられた。武士世界の一つの価値として、殉死を美風とみなす空気が、3代将軍家光の時代までは続いていた。これを4代将軍家綱は、殉死は無益のことと否定したのみならず、現に罰した。そして主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務づけたのである。主人個人に奉公するこれまでの考え方を改め、主人の家に忠誠を尽くすことが望まれた。この結果、主人の家は代々主人であり続け、家臣は代々主家に奉公し続けることを当然のこととした。こうして、従者の側が主人にとってかわる、戦国期から近世初頭にみられた下剋上の可能性は無くなった。
1664(寛文4)年に、家綱はすべての大名にいっせいに領知宛行状を発給した。これ以前の3人の将軍は、個々の大名と主従関係を確認しつつ、まちまちに発給していたが、家綱によって統ー的に、また同時に交付されたことは、将軍権力のより体制的な確立とみることができ、それは幕府の安定を示すものであった。
将軍と大名の関係が将軍優位に安定したのと同様に、大名と家臣の関係も大名優位に安定し、藩政の安定と領内経済の発展がはかられるようになった。いくつかの藩では、藩主が儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかった。会津藩の保科正之は山崎闇斎(1618〜82)に朱子学を学んだ。岡山藩の池田光政(1609〜82)は熊沢蕃山(1619〜91)を用いて、蕃山は私塾花畠教場を、光政は郷学閑谷学校を設けた。水戸藩の徳川光圀(1628〜1700)は朱舜水(1600〜82)を招いて江戸の藩邸内に彰考館をおき、『大日本史』の編纂を始めた。加賀藩の前田綱紀(1643〜1724)は朱子学者木下順庵(1621〜98)らの意見を入れて、藩政に取り組んだ。幕府も藩も、つまり幕藩制は安定した。
彰考館
1657(明暦3)年、江戸の水戸藩別邸(現・東大農学部)内においた『大日本史』の編纂局を、1672(寛文12)年、小石川の藩邸内(現・東京ドーム付近)に移して彰考館と名づけた。水戸には、1686(貞享3)年に城内に彰考館の別館を設けた。1830(天保元)年になって、すべてを水戸に統合した。『大日本史』の完成は、1906(明治39)年であった。