厳島神社 平氏政権
厳島神社境内遠景 社殿は寝殿造を神社建築に応用したもの。Wikipedia

平氏政権 (六波羅政権)

平清盛は太政大臣となり一族で高官を独占。娘を高倉天皇の中宮に入れて子の安徳天皇が即位すると外戚となり権威を誇る。多くの知行国と500余の荘園を保有し、日宋貿易に力を入れ、経済基盤となるが、後鳥羽法皇や院近臣と対立し、法皇を幽閉、関白以下多数の貴族を処罰した。

平氏政権

平治の乱後、平清盛は後白河上皇の信任を得て、法住寺ほうじゅうじ御所の近くに蓮華王院れんげおういんを造営し、その本堂(三十三間堂)には千一体の千手観音像を安置するとともに、宝蔵には古今東西の宝物を納めた。こうした上皇への奉仕と武力によって、清盛は異例の昇進をとげて太政大臣となり、その子平重盛たいらのしげもりらの一族もみな高位高官にのぼって勢威並ぶもののないありさまとなった。

承平・天慶の乱 源平の進出年表
源平の進出年表 ©世界の歴史まっぷ

源氏と平氏 | 世界の歴史まっぷDL

平氏が全盛を迎えた背景には、各地での武士団の成長があった。平清盛は彼らの一部を荘園や公領の現地支配者である地頭じとうに任命して、畿内・西国一帯の武士を家人とすることに成功し、さらに平氏の一門は海賊や山賊などの盗賊の追討使ついとうしに任じられたり、受領となったりして、東国にも勢力を伸ばしていった。

一方で、平清盛は院近臣の立場を利用し、その娘徳子(建礼門院けんれいもんいん)を高倉天皇たかくらてんのうの中宮に入れて、その子安徳天皇あんとくてんのうが即位すると外戚となって権威を誇った。 また、経済的基盤としても多くの知行国と500余りの荘園を所有するなど、その政権の基盤は著しく摂関家に似たものがあった。清盛は京都の六波羅ろくはらに邸宅を構えたので、この政権は六波羅政権ともいわれる。これらの点からみると、平氏政権は武家政権といっても貴族的な性格が強かったといえよう。

院政と平氏の台頭
平氏政権と天皇家関係系図 ©世界の歴史まっぷ

平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れていた。すでに11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来がようやく活発となり、12世紀に宋が北方の女真の建てた金王朝に圧迫されて南に移ってからは、南宋)との通商も盛んに行われるようになった。清盛は摂津の大輪田泊おおわだのとまり(現神戸市)を修築し、瀬戸内海から九州の博多にいたる国々や良港を獲得し、瀬戸内海航路の安全を確保して宋商人の畿内への招来につとめ、貿易を推進した。

遣唐使の中止後、中央貴族は依然として国交や通商に消極的な態度をとっていたので、清盛の対外政策は大きな変化であり、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書簡は、以後の我が国の文化や経済に大きな影響を与え、また貿易の利潤は平氏政権の重要な経済的基盤となった。

しかし、平家はもっぱら従来の国家組織にのって、官職の独占によって支配をはかったために、そこから排除された旧勢力からの強い反感を受け、清盛の妻の姉妹で、後白河法皇の妃となっていた建春門院けんしゅんもんいんがなくなると、法皇や院近臣との対立が深まっていった。

そして117(治承じしょう元)年には、法皇の近臣藤原成親ふじわらのなりちか・西光・僧俊寛しゅんかんらが、京都郊外の鹿ケ谷ししがたにで平氏打倒のはかりごとをめぐらし、失敗する事件をおこしている(鹿ケ谷の陰謀)。

さらに1179(治承3)年になると、後白河法皇を中心に反平氏の動きが表面化したことから、清盛はついに法皇を幽閉し、関白以下多数の貴族の官職を奪い、処罰するという強圧的手段に訴えた。それは一時は功を奏し、全国の半分近くの知行国を獲得するなど、国家機構のほとんどを手中に収めることになった。しかし、こうした権力の独占がかえって反対勢力の結集を促し、平氏の没落を早める結果となった。