登呂遺跡 弥生人の生活
登呂遺跡 Source: 静岡県観光

弥生人の生活

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弥生人の生活
弥生人は縄文人と同じように、竪穴住居に住み、高床倉庫も現れて広まり高床の住居も増えた。縄文時代晩期終末に20〜30棟以上の住居と倉庫からなる住居群を濠で囲んだ環濠集落が現れた。大阪湾岸から瀬戸内地方では防御機能をもつ丘陵上の高地性集落が現れた。

弥生人の生活

弥生人は縄文人と同じように、竪穴住居に住んだ。関東地方の中期の竪穴住居の面積は、平均で30㎡強と縄文時代晩期とあまり変化はない。この住居に住んだ人の構成は不明だが、面積からすると4~5人からなる今日の「世帯」に似たものであろう。
弥生時代前期に稲などの食料は地面に掘った穴蔵に蓄えられたが、前期のうちに高床倉庫も現れて広まり、しだいに高床の住居も増えた。

住居や倉庫が数棟集まって、一つの集落をなすこともあれば、20〜30棟以上の住居と倉庫からなる集落も各地に現れた。こうした住居群をほりで囲んだ集落は、弥生文化に特徴的なもので、環濠集落と呼ばれている。環濠集落は、縄文時代晩期終末に、北部九州に出現し、中期には関東地方にまで広まった。近畿地方や伊勢湾地方には、濠を幾重にもめぐらした環濠集落も出現した。
大阪湾岸から瀬戸内地方では、弥生時代中期と後期に平地との差が50m以上もある丘陵上の集落が現れた。これを高地性集落という。これらはいずれも、防御機能をもつ集落であるとされている。

環濠集落と高地性集落

那珂遺跡 農耕社会の成立
那珂遺跡 Source: 福岡市の文化財

福岡県那珂遺跡なかいせきは縄文時代晩期終末の遺跡だが、ここから2条の環濠が検出されている。これが今のところ日本で最も古い環濠集落である。
韓国慶尚南道けいしょうなんどうの丘陵にある検丹里コムタンニ遺跡から、120m×70mの楕円形の環濠と93棟の竪穴住居などが発掘された。韓国では他にも縄文時代晩期終末と同じ時代の環濠集落が多数発見され、日本列島の環濠集落の故郷が、朝鮮半島にあることがわかった。
稲作農耕とともに、村を守る文化も朝鮮半島からもたらされたと考えられる。
濠の埋土の観察から環濠の外側には掘った土が土手のように築かれていたことがわかる例がある。環濠が防御のための施設である証拠とされる。
高地性集落は、畑作のために丘陵上に立地するという説もある。しかし、これらの集落は弥生時代中期後半ないし後期と出現の時期が限られていたり、主に大阪湾沿岸から瀬戸内海沿岸と分布が限られており、畑作説では説明がつかない現象がある。
大きく重い石鏃せきぞくが多数出土する遺跡も中期に多い。縄文時代の石鏃は狩猟用で、3㎝未満、3g未満のものが多いが、標高352mの高所にある香川県紫雲出山遺跡しうでやまいせきからみつかった341個の石鏃は3cm以上、2g以上のものが大多数で、なかには4〜5gのものもあった。
大阪府古曽部・芝谷遺跡こそべ・しばたにいせきの高地性集落のように、濠をめぐらして防御を強化した集落もある。こうしたことから、高地性集落に軍事的目的を考える説が有力である。

縄文人が住居のそばに墓地をつくったのとは対照的に、弥生人は集落の近くの共同墓地に遺体を埋葬した。遺体の姿勢から、身体を伸ばした伸展葬が多くなる傾向が読みとれる。
北部九州では、甕棺かめかんという大型の埋葬専用の土器に遺体を入れて葬る甕棺墓かめかんぼが発達した。中国地方では、板石を四角く組み合わせた箱式石棺墓はこしきせっかんぼが主流をなした。
木棺を埋めた周りに四角く溝をめぐらし、掘り上げた土で塚を築いた墳丘墓ふんきゅうぼ方形周溝墓ほうけいしゅうこうぼ)は北部九州や近畿地方の前期に出現し、中期には中部・関東地方にまで広がった。
中部・関東地方で方形周溝墓が広まる以前は、いったん遺体を埋め、骨にしてから取り出し、壺に納めて再び葬る再葬が行われていた。
このように、弥生時代の墓は、地方によりさまざまな形態をとることに特徴がある。

弥生時代の生活の基盤は農耕である。青森県砂沢遺跡で前期の、同県垂柳遺跡で中期の水田が検出されたことからもわかるように、とくに水田稲作は広い範囲で農耕の根幹をなした。
弥生時代の水田は畔によって小さく区切られたものが多く、10㎡以下のものもあり、面積が一定しないなど、今日の水田区画と大きく異なる。これは、平らでない土地の地形に応じて均平な水田面をつくるための工夫である。土地条件に応じて湿田や乾田などがつくられたが、湿田には排水用水路、乾田には灌漑用水路を必要とした。静岡県登呂遺跡の畔は、先を尖らせた板を両側に打ち込むことで補強されており、そうした畔や水路の建設には、共同作業を必要としたことであろう。

湿田は地下水位が高く、年間を通じて水を補給する必要がない水田。稲に酸素を供給しにくいため、生産性は低い。
逆に乾田は地下水位が低く、微生物による土中の腐植分解が進み、生産性は高いが、そのかわり潅漑の必要がある。

農具は、農作業に応じて分化している。田をおこしたり水路をつくるくわすき・田をならすエブリ、湿田用の田下駄たげた田舟たぶね・脱穀用のうす竪杵たてぎねはその代表的なものである。
これらは木でつくられたが、木製農具をつくるための道具として磨製石器が用いられた。磨製石器には、伐採用の太型蛤刃石斧ふとがたはまぐりばせきふ、加工用の柱状片刃石斧ちゅうじょうかたばせきふ扁平片刃石斧へんぺいかたばせきふ、細部加工用の鑿型石器のみがたせっきがあり、これらをセットとして用いた地方が多い。

弥生時代の農具

太形蛤刃石斧柱状刃石斧扁平片刃石斧石包丁
太形蛤刃石斧

柱状刃石斧

伐採用(佐賀県菜畑遺跡)木工用(佐賀県菜畑遺跡)木工用(佐賀県菜畑遺跡)(福岡県(佐賀県菜畑遺跡))
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農具の発達

木製農具も、農耕文化の一環として朝鮮半島から伝来したのであろうが、朝鮮半島ではまだ木製農具の出土例は少なく、その辺の事情はわからない。
縄文時代晩期終末の木製農具は、諸手鍬もろてぐわとエブリという単純な組み合わせだったが、前期後半以降、種類を増した。
木製鍬は狭鍬、広鍬、叉鍬、横鍬などにわかれ、鋤には一本鋤、組み合わせ鋤など、用途に応じた多くの種類が登場した。
また、九州は近畿に比べて鋤が小型、鍬が大型で、叉鍬が特徴的であるなど、地方による差も生じた。
木製農具の多くは、堅い台地に対応するために割れにくいカシの木を用いたものが多い。
弥生時代の伐採斧である太型蛤刃石斧が、大型で重くつくられているのは、この硬い木を伐採するためである。
また、エブリは苗代づくりに不可欠な道具で、弥生時代に田植えを行っていた証拠とみなす説もある。岡山県百間川遺跡ひゃっけんがわいせきの水田跡からは、稲株の痕跡が一面に見出され、田植えを証明するものとされている。

鉄素材から鉄器を生産することは、弥生時代中期に始まるが、石製工具はやがて伐採用の鉄斧、加工用のやりがんなや鉄製刀子とうすなど、鉄製工具にとってかわられ、弥生時代後期には東北地方南部にいたるまで、ほぼ鉄器にかわった。
また、西日本では鍬や鋤に鉄製の刃先が取りつけられ、生産性の高い乾田の開墾に威力を発揮して、農業の生産力を高めた。

鉄器

福岡県長行遺跡や曲り田遺跡から出土した鉄斧は、縄文時代晩期終末のものとされている。熊本県齊藤山遺跡の鉄斧は弥生時代前期とされている。
しかし、これら弥生時代前期以前の鉄器については、所属時期を疑問視する向きもある。
弥生時代中期になると鉄器の出土例は増え、主に斧ややりがんななどの農工具や鉄やじりといった武器が鉄でつくられた。
とくに北部九州の鉄器の出土が近畿地方などに比べると格段に多いが、それは鉄器や原料の鉄素材の入手先である朝鮮半島に近く、それとの間により密接な交易などの交流関係が築かれていたためであろう。
弥生時代後期になると、北部九州などで鉄製農工具が激増するとともに、東北地方にいたるまで石器はほぼ消滅する。鉄器の流通が日本列島の各地に及んだことは間違いない。そうした現象の背後には、鉄器ばかりでなく鉄の生産が日本列島でも始められたからだとする考えがあるが、それには異論もある。
弥生時代には、鉄器と青銅器と石器が同時に用いられた時期もあった。石器は後期にほぼ消滅するように、金属器のその座をゆずる。さらに、青銅器はすぐに祭器となり、鉄器が実用品としての意義を強めていった。したがって、弥生時代後期以降は鉄器時代ということができる。

弥生時代には、食用の家畜はおらず、それが弥生時代の農業の特徴だといわれていた。しかし、西日本の遺跡から出土したイノシシとされていた頭骨を調べた結果、眉間の凹みや鼻の長さなどの形質的特徴や歯槽膿漏があることなどから、家畜化したブタが多く混じっていることが確かめられた。

農業の一方で、伝統的な採取、狩猟、漁労などの食料採取も盛んに行われた。西日本の各地でドングリ類の貯蔵穴がみつかり、中期・後期に関東地方でムギ・アワ・ヒエなどの出土例が増すなど、弥生時代初期の頃や地域的には後々まで、稲の生産力はそれほど高くなかったといえる。

集落では、豊作を祈願する祭りが行われた。近畿地方を中心に製作された銅鐸は、集落や地域の農耕の祭りに用いられたものとされ、兵庫県桜ヶ丘遺跡などからは絵画を描いた銅鐸が出土している。
そこにみられるツルあるいはサギやスッポン、カエルなどの絵画は、水田付近の情景を描いたものと考えられている。これに対して、北部九州を中心とした地域では、銅剣・銅矛・銅戈どうかなどの武器形祭器が用いられた。弥生時代後期には、大型化した銅鐸と銅矛がそれぞれ近畿・伊勢湾地方と、北部九州・四国西部地方を中心として分布することから、共通の祭器を用いた地域圏がいくつか生まれていたことがわかる。

弥生時代の各地の遺跡から、鳥をかたどった木製品や、鳥に変装した人物を土器に描いた絵画などがみつかっている。銅鐸や土器にシカの絵を描くことも多く、鳥とシカが信仰の対象になっていたという説がある。
また、シカやイノシシの肩甲骨に火をあて、そのひび割れで占いを行なった。そうした占いの骨を卜骨ぼっこつと呼んでいる。

青銅製祭器とその分布

銅鐸は、弥生時代前期後葉に日本にもたらされた朝鮮式小銅鐸と呼ばれる鐘を祖形としたものである。銅剣・銅矛・銅戈は同じく前期後葉に朝鮮半島から実用の武器として持ち込まれた。
剣は握りのある携帯用の武器、矛は根元が袋状になっており、長い柄に刺して使う槍のような武器、戈は鎌のような形状の武器である。
弥生人が自ら青銅器を生産するようになると、これらは急速に大型化する。銅鐸は、ちゅうという吊るす部分の変化によって大きく4段階にわかれ、武器形祭器も長さと身の幅の比率により4段階の変化がたどれるが、最終段階の弥生時代後期になると、銅鐸や銅矛はついに1m前後の大きなものとなり、それぞれ近畿・伊勢湾地方と、北部九州という勢力圏を代表する祭器となった。
銅鐸には島根県加茂岩倉遺跡のように、人里離れた丘陵の斜面に39個まとめて埋めた事例がある。武器形青銅器は最初、北部九州の有力者の墓に納められたが、やがて銅鐸と同様、集落から離れた場所に一括して埋められるようになり、個人の所有物から集団の祭器へと変化した。最後の銅鐸と銅矛はそれぞれの地域を代表する祭器であるが、複数埋める際には交互に縦置きにして寝かされるという共通点もみられる。

荒神谷遺跡の発掘調査

農耕社会の成立
荒神谷遺跡全体図 Source: 荒神谷博物館

荒神谷遺跡こうじんだにいせきは、島根県斐川町にある。1984(昭和59)年に谷に面した丘陵の斜面で、358本の中細形銅剣が一カ所から出土した。
斜面をテラス状にカットし、穴を掘って埋めたもので、付近には柱穴があり、覆屋おおいやのようなものもあった可能性が考えられている。その数は、それまでに全国で発見されていた銅剣の数を超えるものであった。
さらに斜面をレーダーを用いて探査したところ、銅剣から7m離れた地点にも埋蔵物のあることがわかり、発掘した結果、一カ所に埋納された銅鐸6個と中細銅矛及び中広銅矛16本を検出した。
銅鐸と銅矛は、以前はそれぞれ近畿地方と北部九州を中心に分布する対立圏のシンボルとしてとらえられていた。しかし、北部九州で銅鐸の鋳型がみつかり、そして島根県で銅鐸と銅矛が一緒に出土し、こうした分布圏にも歴史的な変化があることを考えさせる結果となった。このような莫大な量の青銅器の埋納が、何を意味しているのかについては定説がない。 荒神谷博物館