恐慌からの脱出
世界恐慌への対応策として、日本の犬養内閣・蔵相高橋是清(高橋財政)は金輸出再禁止の断行・金本位制から管理通貨制度に移行し、円安を利用して輸出振興をはかった。アメリカはF.ローズヴェルト大統領によるニューディール政策、イギリスはブロック経済圏を強化し、日本商品の進出を国際価格を無視したソーシャル=ダンピングと非難し、自国の産業を保護した。
恐慌からの脱出
1931(昭和6)年12月、犬養内閣(蔵相高橋是清)は成立後ただちに金輸出再禁止を断行し、兌換制度を停止したので、日本経済は管理通貨制度の時代に入った。金輸出再禁止の結果、円の為替相場が大幅に下落し、1932(昭和7)年には一時100円が約20ドルと金解禁時代の半分以下に下がったが、不況のなかで合理化を推進しつつあった諸産業は、円安を利用して輸出振興をはかった。
恐慌と世界経済
イギリス | 本国と植民地によるブロック経済圏 → 保護貿易政策を推進 |
アメリカ | F.ローズヴェルト大統領によるニューディール政策で経済危機から脱出 |
ソ連 | スターリンのもと計画経済による中央集権的経済体制 |
イタリア | ムッソリーニのファシスト党による一党独裁 → 外国侵略へ |
ドイツ | ヒトラーがナチ党を率いて独裁へ → 外国侵略へ |
日本 | 高橋財政(金輸出再禁止・金本位制から管理通貨制度に移行 → 円安を利用して輸出急増) * 列国は、日本の自国植民地への輸出拡大をソーシャル=ダンピングとして非難 |
世界恐慌への対応策として、アメリカは1933(昭和8)年以来、フランクリン=ローズヴェルト( Franklin Roosevelt, 1882〜1945)大統領のもとで、政府資金を投入して農業を保護し、大規模な公共事業をおこすなど、いわゆるニューディール政策を実施して経済危機を乗り切った。また、イギリスは1930年代初めから、本国と属領との結びつきを強めてブロック経済圏を強化した。そして、日本商品の進出を国際価格を無視したソーシャル=ダンピングと非難して、それをおさえるために、輸入品に対して割当制をとり、高率の関税をかけるなど、自国の産業を保護した。しかし、日本の綿織物の輸出は、後退した生糸・絹織物輸入にかわって飛躍的に拡大し、輸出規模はイギリスにかわって世界第1位となった。ー方日本は、輸入の面では綿花・石油・屑鉄・機械など、依然としてかなりアメリカへの依存度が高かった。
高橋蔵相のもとで進められた赤字国債の発行による軍事費・農村救済費を中心とする財政の膨張と、輸出の振興(高橋財政)とによって、産業界は活況を呈した。そしてほかの資本主義諸国に先駆けて、日本経済は恐慌を克服し、1933(昭和8)年ころには、大恐慌以前の生産水準を回復するにいたった。とくに、1931(昭和6)年に重要産業統制法が公布され、各種産業部門におけるカルテルの活動の保護と生産価格の制限や、満州事変以後の軍需の増大と政府の保護政策とに支えられて、重化学工業がめざましい発展をとげ、1930年代後半になると軽工業生産を上回るようになり ❶ 日本の産業構造は大きな変化を遂げた。
鉄鋼業では1934(昭和9)年、八幡製鉄所を中心に財閥系製鉄会社の大合同が行われ、半官半民の国策会社として日本製鉄会社が発足し、鋼材の自給を達成した。自動車工業や化学工業では、鮎川義介(1880〜1967)の日産コンツェルンや野口遵(1873〜1944)の日窒コンツェルンなど新興財閥が中心となって、電力を基礎とした化学コンビナートが発展し、軍部と結びついて朝鮮や満州にも進出していった。そして、従来は重化学工業部門にはあまり力を入れていなかった旧財閥(三井・三菱など)も、しだいにこの分野に乗り出していった。
この間、農村においては政府の指導下に農山漁村経済更生運動が進められ、産業組合拡充などを通して官僚統制が強化された。政府による経済統制が進むにつれ、経済関係の官僚(いわゆる新官僚、のち革新官僚)の進出が著しく、軍部の幕僚グループと手を結んで、強力な国防国家建設の計画が進められた。
新興財閥の成長
名称 | 創始者 | 持株会社と傘下会社数 |
---|---|---|
日産 | 鮎川義介 | 日本産業 日産自動車など77社 |
日窒 | 野口遵 | 日本窒素肥料 日窒鉱業など26社 |
日曹 | 中野友礼 | 日本曹達 日曹人絹パルプなど42社 |
森 | 森矗昶 | 森興業 昭和電工など28社 |
理研 | 大河内正敏 | 理化学興業 理研特殊鉄鋼など63社 |
新興財閥
明治時代から大正時代にかけて財閥を形成し、財界で大きな勢力をふるった三井・三菱など既成財閥に対して、昭和初期に電気・機械化学など重化学工業を中心にコンツェルンを形成し、大きく発展した新興の企業集団を新興財閥と呼ぶ。軍部、とくに関東軍が一時満州経営から既成財閥を排除する方針をとったので、これに乗じて新興財閥は軍部と結び、満州事変以後、満州に進出するなど急成長を遂げた。なかでも日本産業会社を中心に発展した鮎川義介の日産コンツェルンは、1937(昭和12)年満州重工業開発会社を設立し満州経営に大きな役割を果たした。そのほか、日本窒素肥料会社を中心に化学工業の部門で発展した野口遵の日窒コンツェルン、昭和電工を中心とする森矗昶(1884〜1941)の森コンツェルン、日本曹達会社を中心とする日曹コンツェルンなどが新興財閥として名高い。これらは、既成の財閥に比べて株式の公開・同族経営の排除など、より合理的な経営方針をとった。