枢密院会議之図
枢密院会議之図(井上探景画/郵政博物館蔵/画像出典:郵政博物館

憲法の制定

伊藤博文は、1886年から井上毅らと、ドイツ人の法律顧問ロエスレル・モッセらの助言を得て、憲法及び付属諸法令の起草にとりかかり、憲法草案は、88年4月に新設された枢密院において明治天皇の親臨のもとに非公開で審議された。

憲法の制定

近代的国家体制確立の根幹をなすものは、いうまでもなく憲法の制定であった。ヨーロッパでの立憲的諸制度の調査を終えて1883(明治16)年に帰国した伊藤博文は、1886(明治19)年から井上毅いのうえこわし(1843〜95)·伊東巳代治いとうみよじ(1857〜1934)・金子堅太郎かねこけんたろう(1853〜1942)らとともに、ドイツ人の法律顧問ロエスレル( Roesler, 1834〜94)・モッセ( Mosse, 1846〜1925)らの助言を得て、憲法及び付属諸法令の起草にとりかかった。完成した憲法草案は、1888(明治21)年4月に新設された枢密院 において明治天皇の親臨のもとに非公開で審議された。伊藤は首相を辞して枢密院議長となり、憲法草案の審議を主宰した。ここで多少の修正を経たのち、1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)が発布された。

この憲法は制定・発布の形式において、主権者たる天皇が定めて、これを国民に下し与えるという、いわゆる欽定憲法であり、7章76条からなる。君権主義と立憲主義の理念を融合させたもので、その内容は、1850年のプロイセン憲法をはじめ、ドイツ諸邦・ベルギー・イギリスなどヨーロッパ諸国に多く学んでいた。

天皇は神聖不可侵とされ、国の元首として統治権を総攬そうらんするものと定められ、陸海軍の統帥 、編制·常備兵額の決定、行政各部の官制の制定・官吏の任免、法律の裁可・公布・施行、帝国議会の召集·衆議院の解散、宜戦布告·講和・条約締結などの権限を有し、また緊急の必要により議会閉会の場合は法律にかわる勅令を発することができる(緊急勅令発布権、ただし次期の議会で同意が得られなければ、その時点以後勅令は失効となる)など、広範な大権を保持していた。しかし、同時にこれら天皇の統治権は無制限ではなく、憲法の条文にしたがって行使されなければならないことも明記された(第4条)。

憲法と同時に制定された皇室典範こうしつてんぱんにより、皇統の男系の男子(長子)が皇位を継ぐことが定められ、それまでのように女性が天皇となることは認められなくなった。

天皇を補佐する国務大臣の天皇に対する責任は明文化されていたが、議院内閣制は採用されず、議会・国民に対する国務大臣の責任は明らかにされていない。

帝国議会貴族院・衆議院の両院からなり、天皇に協賛して立法権を行使し、また政府提出の予算案の審議·議決にあたることとされたが、現在の日本国憲法のもとでの国会に比較すれば、その権限はいろいろと制約されていた。例えば宣戦・講和・条約締結・軍隊の統帥·首相の任命などについては、議会の権限外であった。また、その予算審議権についても、「憲法上ノ大権二基ツケル既定ノ歳出」などは政府の同意なしには削減できないという制限があり(第67条)、予算不成立の場合は、政府は前年度の予算を施行することができた(71条)。皇族・華族·勅任議員(国家功労者・学士院会員・多額納税者)からなる貴族院が、国民の代表機関たる衆議院とほぼ同等の権限をもっていた。憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法では、衆議院議員の選挙権者は直接国税(地租・所得税など)15円以上を納める満25歳以上の男子(被選挙権者は30歳)に限るという、かなり高度な納税額による制限選挙が採用され、1890(明治23)年の第1回の総選挙のときの有権者はわずか45万人余りで、全人口4000万人の1.1%強にすぎなかった 。その当時の有権者は、おおむね2〜3ha以上の田畑を所有する中程度以上の地主・豪農であった。

国民は臣民しんみんと呼ばれ、兵役・納税の義務を負うとともに、言論・集会·結社・信教・居住·移転などの自由、公務についたり、請顧をしたりする権利、所有権や信書の秘密の不可侵、法律によらない逮捕・監禁の禁止などが認められた。ただし、これらの自由·権利には、いずれも「法律ノ範囲内二於テ」とか「臣民タルノ義務二背カサル限二於テ」とかいうような条件がつけられており、今日からみれば国民の基本的人権の尊重という観念は十分なものとはいえなかった。

とはいえ、この憲法の発布と帝国議会開設(1890〈明治23〉年11月)によって、国民の国政への参加の道が開かれるなど、日本はほかのアジア諸国に先駆けて、近代的な立憲国家としての第一歩を踏み出したのである

枢密院:天皇の諮問機関で、国家に功労のあった長老級の政治家を集めて枢密顧問官とした。憲法上の疑義、憲法付属法令、条約の締結、緊急勅令などについて審議する広範な権限をもっていたが、のちには、政府と衝突して内閣を総辞職させたこともあった。

統帥権:軍隊の作戦用兵の権限を指し、これは天皇の大権として、陸海軍の統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)の補佐によって発動され、政府や議会が統帥権に介入することは認められない慣例であった。これがいわゆる統帥権の独立で、すでに1878(明治11)年の参謀本部の設立や、1882年(明治15)年の軍人勅諭で天皇の軍隊という性格を強調したことに、その考えは表れていた。

立憲政治を実現した初期には、欧米先進国でも高度な制限選挙が一般的であった。たとえば、フランスでは大革命で立憲政治を実現して半世紀以上を経た1840年代半ばころでも、人口に対する有権者の比率は0.6%にすぎなかった。

アジアの国としては、1876年にオスマン帝国が初めて立憲政治を実現したが、1年余りで憲法は停止され、議会は解散させられてしまった。明治憲法発布当時は、アジアに立憲国家はなかった。

伊藤博文の憲法調査と議会の予算審議権

伊藤博文らは1882(明治15)〜83(明治16)年、ヨーロッパで憲法やその運用の調査にあたったが、大半をドイツ(プロイセン)のベルリンとオーストリアのウィーンで過ごし、ベルリンではグナイストモッセ、ウィーンではシュタインらの講義を聞いた。また、のちにベルギー・イギリスなどに渡り、ロンドンではスペンサー( Spencer, 1820〜1903)らから助言を受けた。立憲政治の実現に意気込んでいた伊藤らを困惑させたのは、ヨーロッパ諸国の政治家や学者たちが、明治維新以来の日本政府の改革が急進的すぎることを懸念して、立憲制採用に否定的な見解を示し、たとえやむなく議会を開いても、軍事権や財政権に議会の介入を認めてはならないとする予想以上に保守的・専制的な考えを説いたことである。伊藤らはそこに、有色人種には真の立憲政治を行えないとする蔑視べっしを感じたが、このことは立憲政治の運営が必ずしも簡単ではないことを理解するうえでは役立った。

しかし日本側が、ヨーロッパ側の助言·忠告を鵜呑みにしたわけではない。例えば、憲法起草に際してドイツ人顧問スペンサーは、政府提出の予符案が議会で否決された場合でも、天皇の裁断で政府がその予算を施行できるように憲法で定めておくことを主張した。もしこの意見が取り入れられていたならば、議会の予算審議の権限は有名無実になり、議会や政党の力もずっと弱くなっていたであろう。しかし、起草者の一人井上毅は、そのような立憲主義に反する条項を取り入れるわけにはいかないと強く反対し、結局日本側はロエスレルの意見を受け入れず、予算案不成立の場合は前年度の予算を施行することと定めた。その結果、政府は議会に反対されれば、軍事費の増額や新しい事業の実施、増税などができないことになったのである。