群雄割拠(1560年頃)地図 戦国時代の分国支配
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戦国大名の分国支配

戦国大名は、絶え間のない戦いに勝ち抜き、領国を安定させなければ支配者としての地位を保つことができなかったので、富国強兵のための新しい体制をつくることにつとめた。家臣団統制や領国支配のための政策をつぎつぎと打ち出し、なかには領国支配の基本法である分国法(家法)を制定する者もあった。これらの法典には、中世法の集大成的な性格をもっていた。

戦国大名の分国支配

戦国大名は、絶え間のない戦いに勝ち抜き、領国を安定させなければ支配者としての地位を保つことができなかったので、富国強兵のための新しい体制をつくることにつとめた。家臣団統制や領国支配のための政策をつぎつぎと打ち出し、なかには領国支配の基本法である分国法(家法)を制定する者もあった。これらの法典には、御成敗式目をはじめとする幕府法や守護法を継承した法とともに、国人一揆の取決めを吸収した法などがみられ、中世法の集大成的な性格をもっていた。また、喧嘩をした者は理由のいかんを問わず双方を死罪に処するとした喧嘩両成敗法や、個人の罪を同じ郷村に住む者にまで負わせる連坐(縁坐)制など、新しい権力としての戦国大名の性格を示す法も多くみられる。とくに喧嘩両成敗法は、それまで紛争解決手段の一つとしで慣習的に認められていた決闘・私闘(喧嘩)を禁止し、すべての紛争を大名の裁判に委ねさせることによって、領国の平和を実現しようとしたものであり、この姿勢はのちの豊臣秀吉の惣無事令そうぶじれいにも受け継がれていく。

戦国大名の印章

印章
左から武田氏龍丸印・北条氏虎印・信長天下布武印・大友氏ローマ字印

中世の武家は花押かおうを用いたが戦国大名は印章を用いるようになった。当初、花押は戦功認定など家臣との主従関係に関する文書に、印章は掟書や伝馬など領国統治に関する文書にと使いわけられていた。しかし、しだいに印章を用いる範囲が広がり、とくに東国の大名は好んで印章を用いた。左上の武田氏の龍丸印は「昇龍」を刻んであるが、これはその右の小田原北条氏の虎印に対抗したものと考えられている。虎印は「禄寿応穏」の4字を収めた方形印の上に虎がうずくまつているかたちである。まさに龍虎相打つかたちであるがおもしろいことにに越後の上杉氏は獅子印を用いており3者が鼎立ていりつしていた情勢が印章にも示されている。続いて信長の「天下布武」の印をかかげたが、統一者らしい気風がよく反映されている。これ反してのちの徳川家康は好んで「忠恕ちゅうじょ」といった道徳的な文字を刻んだ印を用いており、これも時代の風潮を示している。右端は大友宗麟おおともそうりんの印章で洗礼名フランシスコの頭文字を組み合わせて「FRCO」と示している。

家法と分国法

戦国大名の定めた法律を、分国法・家法などという。しかし厳密にいえば、そこには性格の違いがある。家法とは家長が子弟や一族に与えた家訓で、下に示した早雲寺殿廿一箇条そううんじどのにじゅういっかじょうや朝倉孝景条々はその部類に入れるべきだとされている。これに対して分国法とは、家訓から発展して領国統治のための法となったものを指し、現在のところ、下に示したものがそれだと考えられている。分国法には家臣団に関する法だけでなく、百姓・町人など、領民全般にわたる法が含まれており、それが文字通り分国の住民すべてを対象とする法であったことがわかる。さらに分国法のなかには大名と家巨との協約のかたちをとるものがかなりあることからもわかるように、分国法は家臣・領民ばかりでなく、大名自身の行動をも規定していた。戦国大名は分国法を自ら遵守し、それに拘束されることによって、初めて正当な権力として認められたのである。

家法と分国法

*印は家法
大名国名法令名制定年
伊達氏陸奥塵芥集1536
結城氏下総結城氏新法度1556
*北条氏伊豆早雲寺殿十一箇条16世紀初
今川氏駿河今川仮名目録
今川仮名目録追加
1526
1553
武田氏甲斐甲州法度之次第
(信玄家法)
1547
*朝倉氏越前朝倉孝景条々
(朝倉敏景十七箇条)
1471〜81
六角氏近江六角氏式目
(義治式目)
1567
大内氏周防大内氏掟書
(大内氏壁書)
1495ころ
三好氏阿波新加制式1562〜73
長宗我部氏土佐長宗我部氏掟書
(長宗我部元親百筒条)
1596
相良氏服後相良氏法度1493〜1555

戦国大名は、新たに征服した土地などで検地をしばしば行った。その検地は、家臣である領主に知行地の面積・収入額などを自己申告させるものと、農民にその耕作地の面積・収入額を自己申告させるものとがあった。また、広い地域でいっせいに検地を実施する場合には、村請制に基づいて、村に命じてその住民の耕作地の面積・収入額を一括して自己申告させることもあった。このような自己申告方式による検地を、指出検地さしだしけんちという。検地によって農民の耕作する土地面積と年貢量などが検地帳に登録され、大名による各領主の知行地に対する直接支配の方向が強化された。農民は、それぞれの土地の領主に年貢や公事を納めたほか、大名に対しても段銭たんせん夫役ぶやくなどの諸税を負担していたが、検地帳はその双方の基本台帳となった。また大名の家臣である領主の貫高も検地帳に基づいて算出されていたから、検地帳は同時に軍役ぐんやくの基本台帳でもあったのである。

戦国大名の検地方法

戦国大名の検地をみると、甲斐の武田氏のように、年貢や加地子額の把握に重点をおき、面積の把握にはあまり積極的でなかった大名もいるが北条氏のようにむしろ面積の把握に重点をおいていた大名もいる。北条氏の検地では、まず村ごとに田と畠それぞれの面積を集計し、そこに1段あたり上田じょうでん500文、下田げでん300文、上畠200文、中畠165文、下畠150文の基準貫高を乗じ(上・中・下の等級は村ごとに決まる)、それらを総計したものがその村の村高となる。この村高が、村が北条氏に対してつとめる諸税の賦課基準となったのである。さらに、村高から農民の再生産に必要な一定の控除分を差し引いたものが、村が実際にその土地の領主に納める年貢額となるが、それは同時にその領主の知行高として領主が北条氏に対してつとめる軍役の賦課基準となった。なお、個々の耕作者への年貢や税の割当ては、村請制に基づいて村が主体となって行った。北条氏の検地は貫高かんだか石高こくだかか、あるいは指出さしだし竿入さおいれかなど、いくつかの違いを除けばのちの太閤検地たいこうけんちと原理的にはほとんどかわらない、きわめて水準の高いものであった。

北条氏の検地方法

1577( 天正5) 年に武蔵国入間郡府川ふのかわ郷(現、埼玉県川越市)で実施された検地を例に、村高・年貢額・知行高それぞれの計算方法をみてみよう。

検地の結果同郷の田の総面積は14町5段小10歩(=145.36段)、畠の総面積は24町2段半30歩(=242.58段)と把握され、それぞれの等級は、田が上田、畠が中畠と認定された。

まず田の総面和に段別の基準貫高(この場合、上田なので500文)を乗じる。

145.36段 X 500文 = 72680文 = 72貫680文・・・・①

これが同郷の田の貫高である。つぎに畠の総面積に段別の基準貫高(この場合、中畠なので165文)を乗じる。

242.58段 X 165文 = 40026文 = 40貫26文・・・・②

これが同郷の畠の貫高である。つぎに田の貫高(①)と畠の貫高(②)を合計する。

72貫680文 + 40貫26文 = 112貫706文・・・・③

これが同郷の村高となる。府川郷の住民はこの村高、すなわち112貫706文を基準に北条氏に諸税を納めたのである。しかし、112貫706文はあくまでも村高であってこれがそのまま年貢になるわけではない。年貢額は村高から農民の生活、再生産に必要な諸経費(控除分)を差し引いたものであり、府川郷の場合20貫文の控除が認められている。したがって、府川郷の農民が実際に領主に納める年貢額は、

112貫706文 – 20貫文 = 92貫706文・・・・④

となる。そしてこの92貫706文という年貢額が同時に府川郷の領主が北条氏に対して軍役をつとめる際の基準、すなわち知行高となるのである。

戦国大名には、武器など大量の物資の生産・調達が必要とされた。とくに朝鮮や明からの輸入品であった木綿は、兵衣・鉄砲の火縄などの武具に使用されて需要が高まり、木綿をもたらす商人の役割が重要になってくるとともに、三河などの各地で木綿栽培が急速に普及し、庶民の衣生活などを大きくかえることにもなった。さまざまな物資を調達するために、大名は領国内に分散していた商工業を新しく編成し直し、有力な商工業者(御用商人)に統制させた。商工業者の力を結集した体制をつくりあげた大名は、大きな城や城下町の建設、鉱山の開発、大河川の治水灌漑などの事業を行った。鉱山開発では戦国大名が金・銀などの採掘に力を入れ、とくに16世紀前半に博多商人神谷寿禎かみやじゅてい(生没年不詳)が朝鮮から伝えた「灰吹法」と呼ばれる新しい精錬技術を導入したことによって金・銀の生産が飛躍的に高まった。このころの鉱山としては越後・佐渡·甲斐の金山、石見・但馬の銀山などが知られている。また治水事業では、武田信玄によって甲斐の釜無川かまなしがわ御勅使川みだいがわが合流する付近に築かれた信玄堤しんげんづつみと呼ばれる堤防が代表的である。

戦国大名の財源

戦国大名は、領国内の土地のほとんどを知行地として家臣や寺社にわけ与えてしまうのがふつうであったから、年貢収入は戦国大名にとって大きな財源とはなり得なかった。大名が年貢を徴収できた土地は直轄領だけであり、その規模は有力家臣のもつ知行地とほぼ同程度にすぎなかった。戦国大名が主な財源としたのは、むしろ段銭・棟別銭・夫役(夫役は本来、労役であるが、銭納されることも多かった)などの税収入である。年貢が直轄領からしか徴収できなかったのに対し、税は原則として家臣や寺社の知行地を含め。領国内のすべての土地(棟別銭の場合は家屋)に賦課されたから、その額は年貢収入をはるかに上まわるものであった。戦国大名が検地に積極的であったのは、検地によって把握された貫高が家臣に対する軍役の賦課基準であっただけでなく、これら領民に対する諸税の賦課基準でもあったためである。

群雄割拠(1560年頃)地図
群雄割拠(1560年頃)地図 ©世界の歴史まっぷ

戦国大名は、城下町を中心に領国を一つのまとまりをもった経済圏とするため、領国内の宿駅や伝馬の交通制度をととのえ、関所の廃止や市場の開設など商業取引の円滑化にも努力した。城下には、家臣の主な者が集められ、商工業者も集住して、しだいに領国の政治・経済・文化の中心として城下町が形成されていった。このころ栄えた城下町としては、朝倉氏の一乗谷(現福井市)をはじめ、北条氏の小田原、今川氏の府中(現静岡市)、上杉氏の春日山(現上越市)、大内氏の山口、大友氏の府内(現、大分市)、島津氏の鹿児島などがある。

戦国の城下町、越前一乗谷

福井市東南部の山中に位骰する一乗谷は、1471(文明3) 年ころ、朝倉孝景あさくらたかかげが建設し、以後朝倉義景までの5代にわたり朝倉氏の本拠地として繁栄した城下町である。当時の史料にも「一乗は山
の間の谷なり」とみえるように、一乗谷は足羽川あすわがわにそそぐ一乗谷川に沿った谷間に築かれており、谷の入口には城戸きどが設けられ、城戸の内側に朝介氏の居館や武家座敷、寺院、町屋などが谷を埋めつくすように建ち並んでいた。孝景が定めた家法「朝倉孝景条々」に家臣団の一乗谷への集住を命じた箇条がある。城下町集住政策としてはきわめて早いものであるが、この箇条がそのまま実態を示しているかどうか多少の問題はあるにしても、一乗谷のなかに家臣たちの屋敷が多く存在したことは事実である。町屋区域からは、中国・朝鮮の陶磁器や越前·美濃などの国産陶器をはじめ、鉄砲の玉や部品、鎧兜の一部などの武具や、さいころ・こま、将棋・羽子板などの玩具、鏡やかんざし、櫛などの化粧具、さらに雪国にふさわしくコスキと呼ばれる雪かき用のスコップや暖房用の行火あんかなども出土している。また、さまざまな生産遺物から、町屋には鍛冶屋や鋳物師いもし紺屋こうや塗師ぬしなど多くの職人が居住していたことも知られる。さらに炭化した医学書や『庭訓往来』の紙片など当時の人々の勉学の様子をうかがわせる貴重な遺物もみつかっている。ー方城下町の中心である朝倉氏の居館には、茶室や庭園が設けられ、高級な茶道具や輸入陶磁器が出土している。将軍足利義昭をはじめ、多くの文化人を受け入れた朝倉氏だけあってその暮らしぶりは実に優雅なものであった。こうしてほぼ100年にわたって繁栄を続けた一乗谷も、1573(天正元)年に織田信長に焼き払われ、もとの山村へもどっていった。

都市の発展(戦国時代)地図
都市の発展(戦国時代)地図 ©世界の歴史まっぷ