戦国大名
甲越川中島大合戦八幡原直戦之図(歌川芳員)©Public Domain

戦国大名

応仁の乱に始まった戦国の争乱のなかから、各地方では地域に根をおろした実力のある支配者が台頭した。明応の政変で将軍の権威は完全に失墜し、室町幕府における主導権は細川氏、その家臣三好長慶、長慶の家臣松永久秀へと移り、久秀らが13代将軍義輝を暗殺。地方では守護・守護代・国人など、さまざまな階層出身の武士たちが、自らの力で領国(分国)をつくりあげ、独自の支配を行う地方政権が誕生。これが戦国大名であり、彼らが活躍した応仁の乱後の下克上の約1世紀を戦国時代という。

戦国大名

応仁の乱に始まった戦国の争乱のなかから、各地方では地域に根をおろした実力のある支配者が台頭してきた。

戦国大名表
戦国大名表 ©世界の歴史まっぷ

群雄割拠(1560年頃)地図
群雄割拠(1560年頃)地図 ©世界の歴史まっぷ

9代将軍義尚が近江の六角氏征討中に病死すると、足利義視あしかがよしみの子の足利義植あしかがよしたね義材よしき、1466〜1523)が10代将軍についたが、管領細川政元(1466〜1507)と対立し、1493(明応2)年に将軍の地位を追われ(明応の政変)、政元は堀越公方ほりごえくぼう足利政知あしかがまさとも(1435〜91)の子足利義澄あしかがよしずみ(1480〜1511)を新将軍の座に据えた。この政変によって将軍の権威は完全に失墜し、室町幕府における主導権は細川氏の手に移った。

しかし、その政元も細川氏内部の対立から暗殺され、以後、激しい権力争いが続いた。この争いのなかで幕府の実権は管領家細川氏からその家臣三好長慶みよしながよし(1522〜64)に移り、さらに長慶の家臣松永久秀まつながひさひで(1510〜77)へと移っていった。久秀らが13代将軍足利義輝あしかがよしてる(1536〜65)を暗殺した事件は、下剋上の世を象徴するできごとであった。このように京都を中心とする近畿地方で政治的混迷が続くなか、ほかの地方では、守護・守護代・国人など、さまざまな階層出身の武士たちが、自らの力で領国(分国ぶんこく)をつくりあげ、独自の支配を行う地方政権が誕生した。これが戦国大名であり、彼らが活躍した応仁の乱後の約1世紀を戦国時代という。

関東では、応仁の乱の直前に、足利持氏の子で当時鎌倉公方であった足利成氏あしかがしげうじが関東管領上杉憲忠うえすぎのりただを殺害したことから享徳の乱きょうとくのらんがおこり、成氏は幕府からの追討を避けるために下総の古河に移った(古河公方こがくぼう)。将軍義政は成氏追討のために兄弟の足利政知を関東に派遣したが政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越に御所を構えた(堀越公方)。以後、鎌倉公方は古河・堀越の両公方に分裂し、関東管領上杉氏もまた山内やまのうち扇谷おうぎがやつの両上杉家にわかれて争う状況となった。この混乱に乗じて、15世紀末、京都から下ってきた北条早雲ほうじょうそううん(伊勢長氏・早雲庵宗瑞、1456〜1519)は、1493 (明応2)年、政知の死後に堀越公方を継いでいた足利茶々丸(?〜1498)を滅ぼして伊豆を奪い、ついで相模に進出して小田原城を本拠とした。その子北条氏綱ほうじょううじつな(1487〜1541)は、相模に続いて武蔵を征服し、孫の北条氏康ほうじょううじやす(1515〜71)のときには、北条氏は常陸·下野・安房などを除く関東の大半を支配する大名となった。

北条早雲

北条早雲は、伊勢新九郎長氏といい、入道して早雲庵宗瑞と称した。早雲は後世の俗称で、同氏が北条を名乗り始めるのは実は子の氏綱のときからである。早雲の素姓については最近では、室町幕府政所執事伊勢氏の一族とみる説がほぼ定説となっている。なお、鎌倉幕府の北条氏と区別してのちの戦国大名の北条氏を後北条氏と呼ぶことがある。

中部地方では、16世紀半ばに越後の守護上杉氏の守護代であった長尾氏に景虎かげとらが出て、北条氏に追われて越後に逃れていた関東管領上杉憲政うえすぎのりまさ(?- 1579)から上杉氏の家督と関東管領の地位を譲られて上杉謙信うえすぎけんしん(輝虎、1530〜78)と名乗った。謙信は越後を統ーするとともに、越中の一向一揆と戦い、また関東にも進出して北条氏の領国をしばしば脅かした。甲斐の武田信玄(晴信、1521〜73)は信濃にも領国を拡大し、のちには西上野や今川氏の領国であった駿河にも進出した。また、上杉謙信ともしばしば北信濃の川中島などで戦った(川中島の戦い)。

美濃では斎藤道三(?〜1556)が守護土岐氏を追放したが、道三の父はもと京都の日蓮宗寺院の僧で、還俗して土岐氏の重臣の家に仕えた新参者にすぎなかった。そのころ駿河・遠江には今川氏、近江には六角氏、越前には朝倉氏らの強豪が並び立っており、尾張では織田氏、三河では徳川氏の祖となる松平氏がまだ弱小ながらしだいに力を蓄えつつあった。

中国地方では守護大名として強勢を誇った大内義隆(1507〜51)が、16世紀半ばに重臣陶晴賢すえはるかた(1521〜55)に国を奪われ、さらに安芸の国人からおこった毛利元就もうりもとなり(1497〜1571)が陶氏を滅ぼして大内氏の旧領を奪った ❶。毛利氏は山陰地方の尼子氏とも激しい戦闘を繰り返しながら、中国地方に勢力を広げていった。そのほか四国に長宗(曽)我部氏、九州には大友氏・竜造寺氏・島津氏などの諸氏、東北には伊達氏など、各地に有力大名が独自の分国を形成して争いを続けた。

陶晴賢すえはるかたは大内義隆を自刃じじんさせたのち、大友義鎮おおともよししげの弟を迎えて大内義長と名乗らせたが、ともに毛利氏によって滅ぼされた。

彼らは島津氏・大友氏・今川氏・武田氏・六角氏などの例を除くと、いずれも守護代か国人から身をおこしたものである。幕府の権威が失われたため、幕府によって任命される守護職の意義もまたしだいに低下していったのである。このように、古い権威が通用しなくなった戦国時代において戦国大名として権力を維持していくためには、守護職のような上からの権威に頼るのではなく、激しい戦乱で領主支配が危機にさらされた家臣や生活を脅かされていた領国民など、下からの支持が必要であり、戦国大名には、新しい軍事指導者・領国支配者としての能力が強く求められたのである ❷。

❷ 今川氏や武田氏など、守護大名出身の戦国大名も、この段階ではもはや幕府の権威に頼ることなく、実力で領国を支配していた。

戦国大名は、一門(一族衆・親類衆)や譜代衆として仕えてきた従来からの家臣団に加え、新しく服属させた国人たち(国衆・外様衆)や、各地で成長の著しかった地侍を家臣として抱えていくことにより、その軍事力を増強した。国人は知行地を与えられて、給人きゅうにん呼ばれる上級家臣を構成し、一方の地侍は年貢の中間得分である加地子かじしの取得権を保障されて、足軽などの下級家臣を構成した。そして大名は、これら家臣たちの収入額(国人であれば知行地の年貢額、地侍であれば加地子額など)を銭に換算した貫高かんだかという基準で統ー的に把握し、その地位·収入を保障してやるかわりに、彼らには貫高にみあった一定の軍役ぐんやくを負担させた。これを貫高制といい、これによって戦国大名の軍事制度の基礎が確立した。下級家臣は通常上級家臣(寄親よりおや)に寄子よりことして預けられるかたちで組織化されたが、この寄親・寄子制によって鉄砲や長槍などの新しい武器を使った集団戦もできるようになった。