聖徳太子 推古朝の政治
「唐本御影」聖徳太子が描かれた肖像画。(この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある。)©Public Domain

2. 推古朝の政治

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推古朝の政治

隋は律令制を整備し、598年以降周辺諸国を圧迫した。倭国でもこの強圧に対処するため権力集中の必要に迫られた。

推古朝の政治

東アジア世界の形成と発展 邪馬台国連合
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

そのころ中国では、北朝からおこった(581〜618)が、589年、南朝の陳を滅ぼして、およそ400年ぶりに統一王朝が成立した。
隋は律令制を整備するとともに、周辺諸国への圧迫を強め、598年以降、4次にわたって高句麗へ大軍を派遣した。朝鮮3国や倭国では、この世界帝国の強圧に対処するための権力集中の必要に迫られた。

蘇我馬子は、用明天皇ようめいてんのう、ついで崇峻天皇すしゅんてんのうとつぎつぎと蘇我氏出身の妃が産んだ皇子を即位させ、権力の集中をはかったが、592年、馬子の権勢を嫌った崇峻天皇を暗殺するという事件をおこした。

天皇・蘇我氏の関係系図
天皇・蘇我氏の関係系図©世界の歴史まっぷ

このような危機を収拾するため、馬子や諸豪族は、欽明天皇と蘇我堅塩媛そがのきたしひめとの間に生まれ、敏達天皇びだつてんのうの后となっていた額田部ぬかたべ皇女(豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめ)を、初めての女性天皇(大王)として即位させた。これが推古天皇すいこてんのう(在位592〜628)である。

奈良県橿原かしはら市の植山古墳は、推古天皇の陵墓とされている。植山古墳は、東西約30m、南北約40mの長方形の方墳で、東西に並んだ二つの横穴式石室をもつが、7世紀前半の西側の石室が推古天皇のものといわれる。

翌593年、推古天皇の甥の厩戸うまやと(のちに聖徳太子と呼ばれる)が政権に参画し、ここに大王推古・厩戸王・大臣蘇我馬子の三者の共治による権力の集中がはかられ、倭国も激動の東アジア国際政治のただなかにのり出していくことになった。

聖徳太子

厩戸王は、蘇我堅塩媛そがのきたしひめ所生の用明天皇を父に、蘇我小姉君そがのおあねのきみ所生の穴穂部あなほべ王女を母にもつ、まさに蘇我の血を受け継ぐ存在であった。
推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の三者は、血縁を軸とした結合によって、権力集中を果たそうとしたのである。なお、厩戸王が就いたとされる皇太子という地位、摂政という職位は、当時はまだ成立していなかった。厩戸王は有力な大王位継承資格者として、政治に参画したのである。ただし、推古朝の諸政策に厩戸王がどれほど主体的に参与していたかは、議論がわかれる。
厩戸王については、早い時期から伝説が成立し、聖徳太子という呼称も生まれていた。結局、推古天皇よりも先に死亡してしまい、即位することはなかった。後世には太子信仰が生まれ、庶民の間にも浸透していった。

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彼ら三者は、王権の周囲に諸豪族を結集させることによって権力を集中し、朝鮮諸国に対する国際的な優位性を確立しようとした。
推古朝の諸政策の中でとくに重視すべきものに、603(推古天皇11)年に制定された冠位十二階の制と、604(推古天皇12)年に制定された憲法十七条とがある。
この二つが、600年の第1次遣隋使と、607年の第2次遣隋使との間に、そして600年と602年に計画された新羅遠征の直後に制定されていることは、見逃すべきではない。この両者は、世界帝国である隋朝と交際するための、文明国としての最低限の政治・儀礼制度だったわけである。彼らの目指した官僚制的な中央集権国家は、あくまで国際情勢の中でとらえなければならない。

冠位十二階

冠位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小にわけて十二階とし、紫・青・赤・黄・白・黒の六色の冠を授けたものである。
冠位はそれまで氏族ごとに賜って世襲されたかばねとは異なり、個人の才能や功績、忠誠に応じて授けられたもので、その官人一代限りのものであり、また功績によって昇進することも可能であった。
これは中国の官品や朝鮮諸国の官位を模範したものであったが、この制度によって、倭国の支配者層は、氏姓制度の世襲制を打破し、官僚制的な集団に自己を再編成しようとしたことになる。
これ以降の冠位・位階制は、全てこれを源流としている。
鞍作鳥くらつくりのとり秦河勝はたのかわかつ小野妹子おののいもこらは、従来の門地にとらわれずに冠位を授与された例である。なお、この冠位を授けられたのは、中央豪族のうちの大夫まえつきみ層以下の階層であって(律令制の四位以下)、大臣家としての蘇我氏や、王族、さらに地方豪族は、冠位授与の枠外にあった。

憲法十七条

憲法十七条は、官僚制に再編成されるべき諸豪族に対する政治的服務規程や道徳的訓戒という性格をもつ。

  • 第1条 和を尊ぶべきこと
  • 第2条 仏教を敬うべきこと
  • 第3条 天皇に服従すべきこと
  • 第4条 礼法を基本とすべきこと
  • 第5条 訴訟を公平に裁くべきこと
  • 第6条 勧善懲悪を徹底すべきこと
  • 第7条 各々の職掌を守るべきこと
  • 第8条 早く出仕して遅く退出すべきこと
  • 第9条 信を義の根本とすべきこと
  • 第10条 怒りを捨てるべきこと
  • 第11条 官人の功績と過失によって賞罰を行うべきこと
  • 第12条 国司・国造は百姓から税を不当に取らないこと
  • 第13条 官吏はその官司の職掌を熟知すべきこと
  • 第14条 他人を嫉妬すべきではないこと
  • 第15条 私心を去るべきこと
  • 第16条 人民を使役する際には時節を考えるべきこと
  • 第17条 物事を独断で行わず議論すべきこと

儒教の君臣道徳のほかに、仏教や法家の思想も読みとれる。これらがどれだけの有効性をもったかは疑問であり、また律令制の成立に直接結びついたわけではないが、少なくとも隋との外交交渉の場では倭国の政治理念を示し、また後世の法に強い影響を残した。

同じく官僚制に基づく中央集権国家の建設にかかわる政策として、603年の小墾田宮おはりだのみやの造営と、620年の国史こくしの編纂があげられる。
前者は、それまでの宮とは隔絶した規模をもつもので、大王の聴政と官僚の執務の場としての性格をもち、それ以降の宮の原型となった。後者は、6世紀に成立した「帝紀」「旧辞」を基にしたもので、『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部幷公民等本記おみむらじとものみやつこくにのみやつこももあまりやそとものをあわせておおみたからどものもとつふみ』からなると伝えられる。天皇制国家の形成過程を示そうとしたものとみられる。

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