日本の中国進出
シベリア出兵地図©世界の歴史まっぷ

日本の中国進出 日本は第一次世界大戦勃発後に日本が占領した山東省の旧ドイツ権益を引き継いで、中国での勢力の拡大をはかろうと、1915(大正4)年1月、大隈内閣は二十一カ条の要求を中国の袁世凱政府につきつけ、大部分を承認させた。これを機に中国国内に激しい対日反感の高まり、欧米列強は日本の中国進出に対して警戒心を強めた。

日本の中国進出

第2次大隈内閣
第2次大隈内閣©世界の歴史まっぷ
日露戦争の勝利により日本がロシアから引き継いだ権益のうち、旅順・大連の租借権や南満州鉄道の権益は1920〜30年代には期限が切れることになっていたので、日本の満州経営は不安定であった。そこで日本は、欧米列強がヨーロッパでの戦争に全力を注ぎ込んでいる間に、南満州の権益の期限を大幅に延長してその安定化をはかるとともに、第一次世界大戦勃発後に日本が占領した山東省の旧ドイツ権益を引き継いで、中国での勢力の拡大をはかろうとした。そして、1915(大正4)年1月、大隈内閣(加藤高明外相)はいわゆる二十一カ条の要求を中国の 袁世凱 政府につきつけた。要求は5号21カ条からなり、その主な内容は、(1)山東省内の旧ドイツ権益の日本による継承、(2)旅順・大連の租借期限及び南満州の鉄道権益の期限の99カ年延長、(3)南満州や東部内蒙古の鉱山の権益、(4)漢冶萍公司かんやひょうばいてつこうしの日中合弁、(5)中国政府の財政・軍事顧問として日本人の採用、などであった。中国政府はこれを内外に暴露してその不当を訴えたが、日本は強い態度によって最後通牒を発し、結局、同年5月、日本人顧問の採用など一部を保留にし、また若干内容を緩和したうえで、その大部分を承認させた。しかし、これを契機に中国国内には激しい対日反感の気運が高まり 、また欧米列強は日本の中国進出に対して警戒心を強めた。
中国では、日本の要求を受け入れた5月9日を国恥こくち記念日として、排日気運を高めた。

二十一カ条の要求

  • 第一号(前文略)
    • 第一条 支那国政府は、独逸国が山東省に関し条約其他に依り支那国に対して有する一切の権利利益譲与等の処分に付、日本国政府が独逸国政府と協定すべき一切の事項を承認すべきことを約す。
  • 第二号 日本国政府及支那国政府は、支那国政府が南満州及東部内蒙古に於ける日本国の優越なる地位を承認するに依り、ここに左の条款を締結せり。
    • 第一条 両締約国は、旅順大連租借期限 並南満州及安奉両鉄道各期限を、何れも更に九九カ年づつ延長すべきことを約す。(中略)
  • 第五号 
    • 第一条 中央政府に政治財政及軍事顧問として有力なる日本人を傭聘せしむること。
(『日本外交年表拉主要文書』 対華21ヶ条要求 日露戦争後のロシア及び清国との条約により、旅順・大連の租借期限は1923(大正12)年に満了することになっていた。 中国側の反対により、この要求は撤回された。
そこで、日本は1917(大正6)年には、連合国からの要請にこたえて、海軍の艦隊をヨーロッパに派遣して連合国側との協力にあたり、また同年、アメリカと石井・ランシング協定を結んで、中国における利害の調整をはかった。

石井・ランシング協定

この協定は、(1)日本の中国に対する特殊権益、(2)中国領土の保全(3)中国に対する商業上の門戸開放・機会均等、などを取り決めたもので、日本政府はこれによって二十一カ条をアメリカ政府が承認したものと解釈したが、アメリカ政府は経済的特権のみを認めたもので政治的特権は承認していないと理解し、この協定をめぐって解釈が対立した。
その後大隈内閣に続いて軍部や官僚勢力を後ろ盾とする陸軍軍人出身の寺内正毅てらうちまさたけ (1852〜1919)が首相となった。寺内内閣は、袁のあとを継いで中国において政権を握った段棋瑞だんきずい (1865〜1936)に巨額の借款を与え(西原借款 )日本の権益を拡大しようとはかった。
この借款の総額は1億4500万円にのぼったが、その多くは中国での特殊利益につながる政治的借款だったため、国内外で大きな政治問題となった。なお、これは当時、寺内首相の側近として借款供与を仲介した西原亀三にしはらかめぞうの名をとって、西原借款と呼ばれている。
1917(大正6)年、ロシア革命 がおこり、社会主義政権が成立して、ソヴィエト政府がドイツ側と単独溝和を結び連合国側から脱治すると、連合諸国は革命の影響が広がり、またドイツの勢力がロシア領内の東方にまで及ぶことに大きな脅威を抱いた。
そこで1918(大正7)年、イギリス・アメリカ・フランスなどは、革命軍によりシベリアに追いつめられた連合国側のチェコスロヴァキア軍を救出するという理由で、シベリアに軍隊を派遣し、革命に干渉した。日本もこれに協力して大陸へ勢力を張ろうと企て、寺内内閣は連合国側の要請に応じて同年8月にシベリア出兵を宣言し、東シベリア・北満州・沿海州などに軍隊を出動させた。しかし、出兵は十分な成果をあげることなく、列国は1920(大正9)年にはいずれも撤兵したが、日本はなお兵力をシベリアや沿海州に駐屯させたので、国内的からも国際的にも日本政府に非難が加えられ、1922(大正11)年にいたって、日本はようやく撤兵した。
日本の中国進出
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尼港事件

1920(大正9)年2月、黒龍江河口のニコライエフスク(尼港にこう)を占領していた日本軍は、約4000人の革命派のパルチザンに包囲されて降伏した。バルチサンの一団は市街を占領すると兵器・弾薬の全面引渡しを要求、3月、日本軍は逆襲を試みたが敗退し、領事館に集まった守備隊・居留民はほとんど全滅し、約120名の日本人外交官や居留民が捕えられて河畔の獄舎に送られた。救援の日本軍は解氷期を待って6月3日に尼港に達したが、時すでに遅かった。パルチザンは5月24日夜半、捕虜をすべて虐殺し、市街に火を放って逃げたあとであった。このとさ命を失った反革命派のロシア人住民は約8000人、日本人兵士・居留民は735人に及んだといわれている。日本はその賠償を要求して、一時、北樺太を占領した。このような悲劇を織り込みながら、日本のシベリア出兵は約10億円の戦費をつぎ込み、3000人以上の死者を出して、ほとんど得るところなく終わったのである。