日露戦争 大阪朝日新聞・東京朝日新聞・万朝報・二六新報などの有力新聞は対露開戦論一色となり、対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを弱腰だと激しく弾劾。民間は対露強硬論の気運を高めた。
日露戦争

ロシアとの対立がしだいに深まるなかで、桂内閣(第1次桂内閣)はロシアに対抗するため軍備拡張を進め、その財源を確保するため地租増徴の継続をはかった。衆議院の多数を占める立憲政友会は、初めこれに反対したが、桂は国債などを財源とすることで立憲政友会と妥協し、ロシアとの戦争に備えた。ー方、ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。
日露戦争前の国内世論
民間においては、対露強硬論の気運が高かったが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六新報』など発行部数が1日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。そして対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを弱腰だとして激しく弾劾し始めた。なかでも強硬だったのは『二六新報』で、「現内閣を倒して主戦内閣を作るは、目下の急務也」と公然と桂内閣の打倒を唱えた。同年10月以前には、内村鑑三(1861〜1930)らキリスト教的人道主義者や社会主義者幸徳秋水(1871〜1911)らの非戦論の主張も掲載していた『万朝報』が、社論を開戦論に一本化し、開戦反対派の代表格とみなされていた元老伊藤博文枢密院議長を厳しく非難して、その引退を勧告する社説をかかげた。これに対し、政府系で発行部数2万〜3万部の『東京日日新聞』や『国民新聞」は、外交交渉による解決を説き、実業界も戦争が財政上・経済上に悪影響を及ぼすことを憂慮して、戦争回避を希望していた。また、社会主義者たちの『平民新聞』(週刊)も反戦論を叫んだ。しかし、発行部数のはるかに少ないこれらの新聞·雑誌の主張は、とうてい世論を動かすにはいたらなかった。日露開戦への道
主戦論 | 非戦論・反戦論 |
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日露戦争(1904.2〜05.9) |
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国内世論に関するベルツの観察
「(1903年)9月15日 ニカ月この方、日本とロシアとの間は、満州と韓国が原因で風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとっくの昔に宜戦を布告せざるを得なかった筈だ。だが幸い政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は日本が海陸ともに勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ。 (1903年)9月12日 日本の新聞の態度もまた厳罰に値するものといわねばならぬ。時事や東京タイムスの如き最も名声ある新聞ですら、戦争をあたかも眼前に迫っているものの如く書き立てるのだ。交渉の時期は過ぎ去った、すべからく武器に物を言わすべし……と。しかしながら、勝ち戦さであってさえその反面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない。」(『ベルツの日記』)
この間、日本政府は1903(明治36)年8月以来、満州問題·韓国問題をめぐってロシアとの交渉を続けた。日本側の主たるねらいは、満州を日本の利益範囲外と認めるかわりに、韓国における日本の軍事的·政治的優越権を確立することにあったが、ロシア側はこれを認めず、日露交渉はまったく行き詰まった。日本は1904(明治37)年2月、元老と政府·軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定し、日本海軍の旅順攻撃と陸軍部隊の仁川(インチョン)上陸によって、日露戦争を開始した。強国ロシアとの戦いは、日本にとって文字通り国家と国民の命運をかけた戦いであった。

日露戦争の戦費と外国債の募集
日露戦争における日本の戦費は約17億円余りに達したが、これは当時の国家予算の歳出額の数年分に相当する。そのうち、約7億円はアメリカやイギリスで募集した外国債で、残りは国内で発行した国債や各種の増税でまかなった。ロシアもフランスなどで外国債を発行して戦費にあてたが、開戦当時は世界の大部分の国が日本の敗北を予想していたので、日本の外国債の発行条件は、利率、償還期限、払込価格などの点で、ロシアのものよりもはるかに日本にとって不利だった。しかし、戦局が日本に有利に展開するにつれて、日本の外国債募集は順調に進み、発行条件も改善された。非戦論
日露戦争に対する国民の熱狂的歓呼が渦巻くなかで、少数ながら戦争反対を唱えた人々もあった。内村鑑三はキリスト教的人道主義の立場から非戦論を説き、幸徳秋水・堺利彦(1870〜1933)ら社会主義者は初め『万朝報』、のち『平民新聞』によって反戦論を展開し、開戦後もロシアの社会主義者に反戦を呼びかけた ❶ 。また与謝野晶子(1878〜1942)は、日本軍の旅順攻撃が続けられているころ、これに加わっている弟の無事を祈って、戦争への疑問をこめた詩「君死にたまふこと勿れ」を発表した。❶ 1904(明治37)年、アムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で、列国の社会主義者たちが集まって日露戦争反対を決議したが、その際、日本を代表して参加した片山潜とロシア代表のプレハーノフが握手を交わしたことは有名である。
かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日露両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の幹旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。アメリカのポ一ツマスで開かれた日露講和会議は、ロシア側が強い態度にでて難航したが、日本側が賠償金の要求を取り下げるなど譲歩したので、1905年9月、日本側首席全権小村寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ( Vitte, 1849〜1915)との間で日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。これによって日本はロシアに、(1)韓国に対するいっさいの指導·保護·監督権の承認、(2)旅順・大連の租借権と長春·旅順間の鉄道及びその付属の権利の譲渡、(3)北緯50度以南の樺太の割譲、(4)沿海州とカムチャツカの漁業権の承認などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。
こうして日本は約110万人の兵力を動員し、死傷者20万人を超すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなど、ポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。東京では河野広中ら反政府系政治家や有力新聞 ❷ の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ群衆が、政府高官邸・警察署・交番や講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会などを襲繋したり、放火したりした。いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎖圧し、講和条約批准にもち込んだが、その後、こうした都市の民衆暴動がしばしばおこり、社会を動揺させた。
❷ 『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』『万朝報』などの有力新聞は、日露講和条約の条件が明らかになると、いっせいにその条件が日本にとって不十分であるとし、「屈辱的講和条約反対」「戦争継続」を主張するキャンペーンを展開し、なかには桂首相・小村外相らを「露探」(ロシアのスパイ)と非難する記事を載せた新聞もあったほどである。