東山文化
北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化のなかに取り込まれていき、新しい独自の文化として広く根づいていった。足利義政は、応仁の乱後、京都の東山に山荘をつくり、そこに足利義満にならって銀閣を建てたが、この時期の文化は、東山山荘に象徴されるところから東山文化と呼ばれる。
東山文化
北山文化で開花した室町時代の文化は、その芸術性が生活文化のなかに取り込まれていき、新しい独自の文化として広く根づいていった。足利義政は、応仁の乱後、京都の東山に山荘をつくり、そこに足利義満にならって銀閣を建てたが、この時期の文化は、東山山荘に象徴されるところから東山文化と呼ばれる。
銀閣
銀閣は東山山荘の仏殿として建てられた2層の楼閣建築で、当初は観音殿と呼ばれていた。下層は書院造で心空殿、上層は禅宗様で潮音閣と呼ばれる。東山山荘は、義政の死後、その遺言にしたがって慈照寺という禅宗寺院に改められたため、銀閣も慈照寺銀閣と呼ばれるようになった。他に阿弥陀三尊を祀る東求堂(持仏堂)などがある。
東山文化は、禅の精神に基づく簡素さと、連歌の世界から発達した幽玄・侘の美意識(枯淡美)を精神的な基調としていた。北山文化のころにみられた唐物に対する執着が弱まり、和物に対する関心が高まってきたことも大きな特色の一つである。銀閣の下層及び東求堂の一室同仁斎にみられる書院造は、このような東山文化の雰囲気をよく表しているとともに、近代の和風住宅の原型となった点でも重要な意味をもっている。
書院造
書院造の大きな特徴は、押板(床)・棚(違い棚)・付書院という定型化された座敷飾にあるが、書院造のほかの特徴を従来の寝殿造と比較しながら列挙すると
- 第1に寝殿造では住宅を間仕切りせず几帳と呼ばれる垂れ布だけで空間を隔てていたのに対し、書院造では住宅を襖障子などで間仕切りして数部屋にわけるようになったこと
- 第2に寝殿造では人が座る場所だけに敷いていた畳を、書院造では部屋全面に敷き詰めるようになったこと
- 第3に寝殿造では屋根裏まで吹き抜けであったのを、書院造では天井をはるようになったこと
- 第4に寝殿造では蔀戸と呼ばれる上下開閉式の扉が用いられていたのに対し、書院造では柔らかい光を取り込める明障子を用いるようになったこと
いずれの特徴をみても. 書院造が近代の和風住宅の出発点となっていることがわかるであろう。
庭園
書院造の住宅や禅宗様の寺院には、禅の世界の精神で統ーされた庭園がつくられた。岩石と砂利を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した枯山水はその代表的なものであり、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園などの名園がつくられた。作庭に従事したのは河原者(山水河原者)と呼ばれる賤民身分の人々であったが、東山山荘の庭をつくった善阿弥(生没年不詳)はその代表的な人物であり、彼の子の小四郎、孫の又四郎も同じく作庭家として活躍した。
将軍義政の周辺には、このような作庭・花道・茶道などの芸能にひいでた人々が多く集められ、東山文化の創造に貢献した。その多くは善阿弥や能の世阿弥のように阿弥号を名乗り、なかには将軍に近侍して身辺の雑務にあたる同朋衆となり、実務に従事するかたわら、美術工芸品の鑑定や座敷飾りなどに能力を発揮した者もいる。とくに立花の名手であった立阿弥や、水墨画と連歌にすぐれ、三阿弥と称された能阿弥(1397〜1471)・芸阿弥(1431〜85)・相阿弥(?〜1525)の三代は有名である。
水墨画
新しい住宅様式の成立は、座敷の装飾を盛んにし、掛軸・襖絵などの絵画、床の間を飾る生花・工芸品をいっそう発展させた。墨の濃淡で自然や人物を象徴的に表現する水墨画は、すでに北山文化のころ五山僧の明兆(兆殿司)・如拙・周文らによって基礎が築かれていたがこの時期に如拙・周文の門下から雪舟(1420〜1506)が出て、明(王朝)での見聞や地方生活の経験を生かしながら『四季山水図巻(山水長巻)』『秋冬山水図』『天橋立図』などの作品をつぎつぎと描き、水墨画の作画技術を集大成するとともに、禅画の制約を乗り越え、日本的な水墨画様式を創造した。また、雪舟の画風に影響を受けた雪村(生没年不詳)も東国を中心に活動し、『風濤図』などの作品を残している。
大和絵
大和絵では、応仁の乱後、朝廷絵師であった土佐光信(生没年不詳)が『清水寺縁起』などの作品を描き、土佐派の基礎を固めた。ー方、幕府の御用絵師であった狩野正信(1434?〜1530)・狩野元信(1476〜1559)父子は、水墨画に伝統的な大和絵の手法を取り入れて新しく狩野派をおこし『周茂叔愛蓮図』(狩野正信)・『大仙院花鳥図』(伝狩野元信)などの作品を残した。
彫刻
彫刻は、能の隆盛につれて能面の制作が発達し、工芸では金工の後藤祐乗(1440〜1512)が出て目貫・小柄などの刀剣装飾に優れた作品を残した。代表的な漆工芸である蒔絵の技術もこの時期に大いに進み、硯箱や手箱に多くの名品が生まれた。
茶道
日本の伝統文化を代表する茶道(茶の湯)・花道(華道・生花)も、この時代に基礎が据えられた。茶の湯では、南北朝時代以降、各地で茶寄合や闘茶が流行したが、この時期に村田珠光(1423〜 1502)が出て、枯淡美を追究する連歌の精神に学びながらそれまでの書院の茶に対し、簡素な茶室で心の静けさを求める侘茶を創出した。侘茶の方式は、村田珠光ののち堺の武野紹鴎(1502〜55)を経て、千利休(1522〜91)によって完成されることになる。
立花
仏前に供える花から発達した生花も座敷の床の間を飾る立花様式が定まり、床の間を飾る花そのものを鑑賞するかたちがつくられていった。立花の名手としては、立阿弥や京都頂法寺(六角堂)の坊の一つ池坊にいた池坊専慶(生没年不詳)が知られる。とくに池坊からは16世紀のなかごろに池坊専応(生没年不詳)、末ごろには池坊専好(初代 1536〜1621)がでて立花を大成した。
香道
また、香をかぎわけてその銘柄をあてる香寄合も流行し、三条西実隆(1455〜1537)らが出て香道として大成した。
有職故実
ー方、政治的にも経済的にも力を失った公家は、もっぱら伝統的な文化の担い手となって有職故実の学問や、古典の研究に意をそそいだ。なかでも当時、日本無双の才人とうたわれた一条兼良(1402〜81)は、朝廷の年中行事を解説した『公事根源』や『源氏物語』の注釈書である『花烏余情』をはじめ、多くの研究書· 注釈書を著したほか、9代将軍足利義尚にささげた『樵談治要』などの政道論も残している。古典では、『古今和歌集』が早くから和歌の聖典として重んじられ、その解釈などについても、当時の秘事口伝の風潮とともに神聖化されて特定の人だけに伝授された。これを古今伝授といい、東常縁(1401〜94?)によってととのえられ、さらに宗祇(1421〜1502)によってまとめられた。
古今伝授
『古今和歌集』のなかの特別の語句を定めて、それを秘伝とし、高弟の1人を選んで、その者だけに授けることである。その始まりは、1473(文明5)年に東常縁が連歌師宗祇に伝えたことにあるという。それ以前は、藤原基俊(1060〜1142)から藤原俊成・藤原定家と授けられて常縁にいたったというが確かではない。宗祇はこれをさらに形式化して、三条西実隆と肖柏に伝えた。
神道
また、神道思想による『日本書紀』などの研究が進み、京都の吉田神社の神職であった吉田兼倶(1435〜1511)は反本地垂迹説に基づき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道(吉田神道)を完成した。
吉田家の神社支配
吉田家は代々吉田神社の神職をつとめ、多くの学者を輩出した家柄であった。15世紀に現れた吉田兼倶は、家伝の神道説を大成するとともに、大元宮と称する八角形の神殿と斎場を建造するなどして、吉田神社の権威の上昇をはかった。また、神祇伯(神祇官の長官)を世襲していた白川家に対抗するため、「神祇管領勾当長上」「神祇長上」「神道長上」などの地位を自称し、また諸国の神社・神職に対し「宗源宜旨」「神道裁許状」などと呼ばれる免許状を発給することによって、 しだいに全国の神社を支配していった。兼倶の教説には虚構や捏造も多く、当初は周囲の貫族や学者からも激しい非難を受けたが、その後吉田家による神社支配は江戸幕府によって公認され、神職につくものは吉田家から「神道裁許状」を受けることが義務づけられるようになった。