桂園時代
日露戦争後、藩閥・官僚勢力や陸軍をバックとした桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁西園寺公望とが「情意投合」して交互に内閣を組織するというかたちが続き、いわゆる桂園時代が訪れた。
桂園時代
日露戦争を通じて、日本の国内政治にもいろいろな変化が現れた。日露戦争後の1906(明治39)年、第1次桂内閣は退陣し、第1次西園寺内閣が成立したが、これ以後、藩閥・官僚勢力や陸軍をバックとした桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁西園寺公望とが「情意投合」して交互に内閣を組織するというかたちが続き、いわゆる桂園時代が訪れた。山県有朋をはじめとする藩閥政治家の長老は元老として、各種の重要国務に参画し、後継首相の推薦などを通じて政界に隠然たる勢力をふるっていた ❶ 。
ー方、立憲政友会は原敬を中心に藩閥·官僚勢力と対抗し、これと妥協を重ねながらも、衆議院の第一党を確保し、鉄道・河川・港湾など地方の利益につながる問題を取りあげることによって、勢力地盤を拡大し、官僚や貴族院の一部にも勢力を及ぼした。
日露戦争後、軍部が中心となって大規模な軍備拡張計画が立案された。しかし、1907(明治40)年以後、不況が進み、国家の財政状態が苦しくなって財政整理が必要になると、軍拡計画も思うようには進まなくなった。
帝国国防方針
1907(明治40)年、軍部は山県有朋らが中心となって帝国国防方針を立案した。これは、陸軍はロシア・フランスを仮想敵国として17個師団を25個師団に増強し、海軍はアメリカに対抗して戦艦・巡洋戦艦各8隻を中心とする大艦隊(八・八艦隊)を建設する、というものであった。
こうした状況のなかで、政府は1908(明治41)年に戊申詔書を発して家族主義を強調し、節約と勤勉による国力の増強を説いて、内務省を中心に地方改良運動を進めた。そして、町村の税負担の能力を高め、農村共同体を町村のもとに再編して、国家の基礎を固めることに力を注いだ。そのために、旧村落ごとの青年会を町村ごとの青年会に再編強化し、内務省・文部省の指導下に組織化をはかった。また、1910(明治43)年には帝国在郷軍人会が設立され、町村ごとの在郷軍人会をその下部組織に組み込んだ。同年には産業組合中央会や帝国農会も設立され、政府の指導下に産業組合運動がしだいに本格化していった。