民本主義
吉野作造(近代日本人の肖像)©Public Domain
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民本主義 連合国側で第一次世界大戦をデモクラシー(民主主義)対オートクラシー(専制主義)の戦いであると意義づけ、世界的にデモクラシーの気運が高まり、日本でも大正デモクラシーとのちに呼ばれる民主主義的な風潮が広り、吉野作造が用いたデモクラシーの訳語の民本主義の思想は知識人を中心に国民の間に広まっていった。

民本主義

第一次世界大戦に参戦した世界の諸国では、広範な民衆動員が行われたが、とくに連合国側でこの戦争をデモクラシー(民主主義)対オートクラシー(専制主義)の戦いであると意義づけたこともあって、大戦のさなか世界的にデモクラシーの気運が高まった。日本においては、こうした「世界の大勢」の影響と、明治末期以来の民衆の政治的登場という新しい情勢を背景として、いわゆる大正デモクラシーとのちに呼ばれる民主主義的な風潮が広まった。 この指導理論として盛んになったのは、吉野作造よしのさくぞう (1878〜1933)の唱えたいわゆる民本主義であった。彼は民本主義をデモクラシーの訳語として用いたうえで、政治の目的が民衆の福利にあり、政策決定が民衆の意向に基づくべきであると主張した。そして、天皇の大権を後ろ盾に民意に反した政治を行っているとして、元老・藩閥・官僚・軍部・貴族院などを批判し、その改革を説き、また議会中心の政治運営や普通選挙の実施などを唱えた。 これに伴って言論機関の活動も活発となり、『朝日新聞』や雑誌『中央公論』『改造』をはじめとして、多くの新聞・雑誌は、藩閥・軍部・官僚勢力の批判に鋭い論陣を張った。こうして、民本主義の思想は知識人を中心に国民の間に広まっていった。

民本主義

民本主義という文字は、日本語としては極めて新しい用例である。従来は民主主義という語を以て普通に唱えられて居ったようだ。時としては又民衆主義とか、平民主義とか呼ばれたこともある。然し民主主義といえば、社会民主党などという場合に於けるが如く、「国家の主権は人民にあり」という危険なる学説と混同され易い。(中略)洋語のデモクラシーという言葉は今日実はいろいろの異なったいみに用いられる。(中略)此言葉は今日の政治法律等の学問上に於いては、少なくとも二つの異なった意味に用いられて居るように思う。一つは「国家の主権は法理上人民に在り」という意味に、又も一つは「国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし」という意味に用いられる。この第二の意味にひらるる時に、我々はこれを民本主義と訳すので在る。…… (『中央公論』1916(大正5)年1月号)

吉野作造

1904年、東京帝国大学法科大学を卒業し、袁世凱の長男の家庭教師をつとめたのち東京帝大の助教授に就任し政治史を担当。1910〜13年までヨーロッパへ留学し、デモクラシーが世界の大勢で、その担い手は労働者階級であるとの確信を得て帰国。1916年『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表。「デモクラシー」に「民本主義」の訳語を与え、目標を普通選挙と政党政治の確立と考えた。友愛会の評議員として鈴木文治を支え、東大に新人会を組織するなど、大正デモクラシーの中心人物となった。

参考 山川 詳説日本史図録