民衆の負担
正集 第38巻 筑前国嶋郡川辺里戸籍(大宝2)正倉院 – 宮内庁宝物(部分)

民衆の負担

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民衆の負担
全国の人民を戸籍・計帳に登録戸籍に登録された全ての公民に既墾地を口分田として班給(班田収授)整然と区画(条里制)口分田の班給を受けた農民の租税負担(租・公出挙・義倉・調・庸・贄・雑徭)と兵役(防人など)身分制度(良民と賎民)。

民衆の負担

戸籍

政府は、全国の人民を戸籍・計帳けいちょうに登録することによって、律令体制による支配を末端にまで浸透させようとした。
戸籍は、戸を単位として人民一人ひとりを詳細に登録したもので、6年ごとにつくられ、戸を単位とした課役、良賤身分の掌握、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされた。
計帳は、調・庸を徴収するための基礎台帳として全国の課口数の推移を把握するためのもので、毎年つくりかえられた。

人民は、「編戸の民へんこのたみ」と呼ばれたように、いずれかの戸に組み入れられた。この戸50をもって行政単位としてのが編成された。この50戸1里制の戸は郷戸ごうこと呼ばれ、父系血縁で結合された複合大家族の形態をとり、それに寄口きこうと呼ばれた没落した良民や、奴婢が含まれるように編成された(一時、この郷戸を分割した房戸ぼうこという直系親族集団が構成されたことがある)。

班田収授法

戸籍に登録された全ての公民には、有位者と無位者、良賤の身分、男女の性などの別を問わず、そのすべてに既墾地きこんち口分田くぶんでんとして班給された(良民男性が2段(11.9a)良民女性がその3分の2、官戸・公奴婢くぬひが良民男女と同じ、家人けにん・私奴婢がその3分の1というように、男女、良賤の別によって班給額に差があった)。
口分田の収授は、「六年一班」と呼ばれるように、6年に1回つくられる戸籍において、受田資格を得た者に口分田を班給し、その間に死亡した者の口分田を収公するというものであった。これを班田収授法という。

なお、そのほかの田地には、租を納める義務のある輸租田として、位田いでん功田こうでん賜田しでん、租を免除された不輸租田として、寺田じでん神田しんでん職田しきでん(郡司の職田は輸租田)などがあった。
また、一般の戸口に対して永久に与えられた宅地や園地があり、これは売買自由とされた。さらに、山川・原野・沼沢などは共有の土地であったが、未開墾の土地については、律令には規定がなかった。

これらの田地は、班田に便利なように整然と区画された。これを条里制という。統一的な企画による条里制地割りが全国的に施行され始めるのは、和銅から養老年間の頃とされる。
地割りの方法は、水田地帯を360歩(648m)平方に区画し、その南北の一辺を条、東西の一辺を里と名付けた。この360歩四方の土地を里と呼び、それを36等分した60歩四方の土地を坪と呼んだ。坪はさらに1段ずつに10等分され、班田の基準となった。

租税

口分田の班給を受けた農民は、建前の上では最低限の生活を保障されたことになったが、その一方では、租・調・庸・雑徭などの重い負担を負った。律令国家の租税は、大別すると、土地生産物のうちの穀物を徴収する系列(租・公出挙くずいこ義倉ぎそうなど)、繊維製品、手工業製品・穀物以外の生産物を徴収する系列(調・庸・にえなど)、公民の身役労働を徴収する系列(雑徭ぞうようなど)の3種があった。

は、かつて農業共同体において行われていた初穂儀礼を起源とする。性別、身分、良・賤の別にかかわりなく、輸租田を耕作する者に、耕作面積に応じて一律に賦課され、稲2束2把(収穫の約3%)を納めた。

公出挙くすいこは、春夏の2度、官稲かんとう(正税)を公民に貸し出し、秋の収穫後に本稲に5割の利稲を添えて徴収するもので、利稲は国府の重要な財源とされた(民間の私出挙もあった)。

義倉ぎそうは、備荒貯蓄として、有位者以下、百姓・品部・雑戸にいたるまで、一定量の粟を徴収するものであった。

調ちょうは、地方の服属儀礼としてのミツギを起源とするもので、成年男性の正丁せいてい次丁じてい残疾ざんしつ老丁ろうてい。正丁の2分の1の賦課額)・中男ちゅうなん(17歳から20歳までの良民男性。正丁の4分の1の賦課額)に賦課された人頭税であった。繊維製品をはじめ、染料や塩・紙・食料品など、それぞれの国の特産物が徴収され、納税者のうちから運脚うんきゃくの人夫が選ばれて、都まで運ばれた。

ようは、正丁に10日、次丁に5日、都にのぼって政府の命じる労役(歳役さいえき)の代納物として、布・綿・米・塩などを納めるもので、やはり運脚によって都まで運ばれた。

にえは、律令には規定はないが、藤原宮跡及び平城宮跡から出土した木簡に数多くみられる。多くは魚介類・海藻などの食品である。贄は、かつての共同体内での首長への食物貢納儀礼を起源とすると考えられる。

雑徭ぞうようは、正丁1人について年間60日以内(次丁は2分の1、中男は4分の1)、国司のもとで、国内の土木事業や、国・郡の役所の雑用などに使役するものであった。
身役労働については、そのほかに仕丁しちょう雇役こえきがある。
仕丁は、1里ごとに2人の割合で徴発され、都にのぼって中央官庁で雑役に従うものであったが、造営事業にも動員された。仕丁は調・庸・雑徭を免除され、粮食りょうしょくを支給された。
雇役は、造都・造営事業などのために都の周辺諸国の公民を強制的に雇用するというものであった。雇役民には粮食と日当が支給された。
仕丁・雇役はともに、往復の食料などは自弁であり、故郷に戻る途中で飢え死にしたり、逃亡する者が絶えなかった。

兵役

これらの租税のほかに、人民にとって大きな負担となったのが兵役へいえきであった。これは正丁3〜4人に1人の割合で兵士を徴発するもので、兵士は各地の軍団に配属されて一定の期間、訓練を受けた。軍団は3〜4郡に一つずつおかれ、全国では約140を数えた。
訓練を受けた兵士は、衛士えじとなって1年間都にのぼり、宮城や京内の警備にあたったり、防人さきもりとなって大宰府におもむき、3年間、九州北部沿岸の防衛にあたったりした。防人にあてられた者は、ほとんどが東国の農民であった。一般の兵士は庸・雑徭を免除され、衛士や防人も調・庸・雑徭などは免除されたが、それぞれの戸の労働力の中心である正丁を徴発されるうえ、武装や食料をはじめ旅費の一部を負担しなければならなかったため、その負担は極めて重かった。

防人

古代に、九州北部の防備にあたった兵士のこと。663(天智天皇2)年の白村江の戦いの敗戦以降に整備された。
大宝令の制定によって軍団兵士制が確立すると、防人はその中に組み込まれ、諸国軍団兵士の中から派遣されることになったが、実際にはほとんどが東国出身の兵であった。
これは、ヤマト政権以来の舎人とねりの遺制ともみられる。防人の数は約3000人と推定されている。防人となって大宰府にくだったものは3年間、九州北部沿岸の防衛に任じられたが、3年の勤務で交替するという令の規定は、必ずしも原則どおりには実行されず、帰郷できない防人も多かった。
また、防人は調・庸・雑徭などを免除されてはいたが、武装や難波津までの食料を負担しなければならなかったため、その負担は極めて重かった。
なお、『万葉集』巻20に、家族との別れなどを詠んだ東国防人歌が載せられている。

身分制度

律令制下の身分制度は、まず人民を良民賤民に分けるものであった。
良民には、公民と呼ばれる一般農民のほか、皇族・皇親や貴族といった支配階級、公民よりも一段低い身分の品部・雑戸があった。品部・雑戸は、賤民ではないが半自由民で、特殊な工芸技術をもち、政府の工房で働き、調・庸のかわりに手工業製品を納入した。
賤民は、律令制成立後も解放されなかった不自由民で、陵戸りょうこ官戸かんこ公奴婢くぬひ官奴婢かんぬひ)・家人けにん私奴婢しぬひという五色の賤ごしきのせんにわけられていた。
陵戸りょうこは、課役の納入にかえて天皇の陵墓の守衛にあたるものであり、品部・雑戸に近い。
官戸かんこ公奴婢くぬひは官有で公的雑務に使役され、家人けにん私奴婢しぬひは私人に隷属あるいは私有された。
また、官戸かんこ家人けにんは戸を構成し、使役されるのは本人だけであり、売買の対象にならなかったのに対し、
公奴婢くぬひ私奴婢しぬひは独立の生計を営むことは許されず、全員が使役され、財産として相続・売買・譲渡されるという、完全な不自由民であった。
これら賤民は、課役納入の義務をもたず(従って、戸籍に登録されるべき姓をもたなかった)、国家による収奪の対象外におかれていたので、中央の大寺院や貴族、地方の有力豪族など、奴婢を多く所有している者は、経済的には大きな特権となった。なお、賤民の割合は人口の数%程度と低かったが、これは諸外国の古代とは異なる日本の特色であった。