洋学の発達
キリスト教禁止、鎖国状態のため、ヨーロッパの学術・知識の研究や吸収は困難をきわめたが、長崎出島のオランダ人などを通じてしだいに学ばれていった。
洋学の発達
化政文化 洋学
西川如見(1648-1724) | 天文暦算家。長崎出身で将軍吉宗に招かれて江戸へ。長崎で見聞した海外事情を『華夷通商考』で記述。 |
新井白石(1657-1725) | イタリア人宣教師シドッチの尋問で得た世界の地理・風俗を『西洋記聞』『采覧異言』で著述。 |
青木昆陽(1698-1769) | 将軍吉宗の命でオランダ語を学び、甘藷(さつまいも)栽培を進める。『蕃薯考』『和蘭文字略考』 |
野呂元丈(1693-1761) | 本草学者。将軍吉宗の命でオランダ薬物学を研究。『阿蘭陀本草和解』 |
山脇東洋(1705-62) | 古医方(実験を重んじる漢代の医方)による日本初の解剖書『蔵志』を著した。 |
前野良沢(1723-1803) | 杉田玄白と『解体新書』を訳述。 |
杉田玄白(1733-1817) | 前野良沢と『解体新書』を訳述。『蘭学事始』 |
大槻玄沢(1757-1827) | 蘭医。江戸に芝蘭堂を開く。『蘭学階梯』 |
宇田川玄随(1755-97) | 日本初のオランダ内科書『西説内科撰要』を著述。 |
宇田川榕菴(1798-1846) | イギリスの化学書を翻訳。『舎密開宗』 |
稲村三伯(1758-1811) | 最初の蘭日対訳辞書『ハルマ和解』(ハルマの蘭仏辞典を和訳)を作成。 |
志筑忠雄(1760-1806) | 『暦象新書』を訳述して、ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介。ドイツ人医師ケンペルの『日本誌』を翻訳して『鎖国論』と題した。 |
蘭学
キリスト教禁止、鎖国状態のため、ヨーロッパの学術・知識の研究や吸収は困難をきわめたが、長崎出島のオランダ人などを通じてしだいに学ばれていった。その先駆けとして西川如見(1648-1724)は『華夷通商考』において海外事情と通商関係を記述し、新井白石は1708(宝永5)年にキリスト教布教のため屋久島に潜入したところを捕えられたイタリア人宣教師シドッチ(Siddotti, 1668-1714)を尋問し、そこから得た世界の地理・物産·民俗などの知識をもとに『采覧異言』『西洋記聞』を著した。
ついで将軍吉宗は、実学と新しい産業を奨励するためキリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入制限を緩和するとともに、青木昆陽・野呂元丈(1693-1761)らにオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学として発達した。
医学
いち早く取り入れられたのは、実用の学問としての医学や科学技術であった。漢方医学では、中国元(王朝)・明(王朝)時代の医学を重んじる当時の流れに対して、臨床実験を重視する漢代の医術にもどろうとする古医方が現れ、その一人の山脇東洋(1705-62)は、18世紀なかごろ、刑死人の解剖を行わせて日本最初の解剖図録『蔵志』を著した。蘭方医学では、1774(安永3)年前野良沢(1723-1803)や杉田玄白(1733-1817)らが、西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』を訳述した『解体新書』を出版するという画期的な成果をあげた。蘭学はこれを機に発展期を迎え、医学·本草学·天文学·地理学などの各分野で発展をみせた。仙台藩の医師大槻玄沢(1757-1827)は、『蘭学階梯』という蘭学の入門書を著し、江戸に芝蘭堂を開いて多くの門人を育てた。芝蘭堂では毎年太陽暦の1月l日にあたる日に新年を祝うオランダ正月(新元会)が開かれた。その門人の宇田川玄随(1755-97)は、西洋の内科書を訳して『西説内科撰要』を著し、稲村三伯(1758-1811)は、わが国最初の蘭日辞書である『ハルマ和解』をつくった。
天文学
漢訳洋書や蘭書から西洋天文学を学んだ天文学は、麻田剛立(1734-99)らにより急速に発展し、幕府は18世紀末に麻田から天文・暦学を学んだ高橋至時(1764-1804)を天文方に登用し、寛政暦をつくらせた。ほぼ同じころ、もとオランダ通詞志筑忠雄(1760-1806) ❶ は『暦象新書』を訳述して、ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介した。幕府はまた、高橋至時に暦学・測量を学んだ伊能忠敬(1745-1818)に全国の沿岸を実測させ、伊能は地上の実測と天体観測による緯度測定を組み合わせて精度の高い『大日本沿海輿地全図』を作成した。
私塾
幕府は、天文方の高橋景保の意見を入れて、天文方に蛮書和解御用という機関を設置した。多くの洋学者を集めて洋書を翻訳させ、洋学の成果を吸収するため、幕府の統制下で西洋の科学技術の研究にあたらせた。フランス百科事典の翻訳である『厚生新編』や宇田川榕菴(1798-1846)が訳述した化学書『舎密開宗』などはその成果の一つである。蘭学への関心はさらに高まり、幕府の統制をのり超えて広がった。19世紀前半にはオランダ商館の医師であったドイツ人シーボルト(Siebold, 1796-1866)が長崎郊外に嗚滝塾を、緒方洪庵(1810-63)が大坂に適塾(適々斎塾)を開き、多くの優れた人材を育成し、のちの西洋文化吸収の土台をつくった ❷。
幕府の対応
しかし幕府は、洋学を科学技術の分野に限定し、西洋の政治・社会・思想の研究を通して幕府の政治・外交などを批判するのを抑圧しようとした1828(文政11)年には、シーボルトが帰国の際にもち出し禁止の日本地図をもっていたことから国外追放処分にし、この地図を渡した高橋景保ら関係者を処罰したシーボルト事件や、幕府の外交政策を批判した渡辺崋山らを処罰した蛮社の獄などがおこっている。そのため、その後の洋学は医学·兵学・地理学など実学としての性格を強めた。